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大学礼拝「私には希望がある」2018/4/25

カテゴリー:大学礼拝

【ヘブライ人への手紙6:10-12】
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

皆さんは、子どもたちの命と成長に携わるという大切で尊い夢と希望を抱いて、この名古屋柳城短期大学に入学し、今この時を過ごしています。その夢と希望の中で学びに取り組む皆さんの姿を傍らで見つめていると、皆さんひとり一人の為人(ひととなり)を感じることができるような気がし、皆さんの存在を身近に感じることができます。私個人はそのように(勝手に)皆さんを身近に感じていますが、皆さんにとって私は“最近、大学構内でよく見かけるけど、何者?!”的な存在だと思います。ですから、今日は、なぜ、私が司祭になったのかを自己紹介も兼ねて、お話ししたいと思います。私が幼児教育者を目指す皆さんの夢と希望を見つめて、皆さんのことを身近に感じるように、皆さんも、かつて皆さんと同年代であった頃の私の夢と希望を知り、私のことを少しでも身近に感じてくだされば幸いです。

私は代々からのクリスチャンの家に生まれました。高祖父は伝道師、曾祖父は司祭、大叔父も司祭という家で、両親も信仰厚く、私も“神様”という存在に対する祈りの中で成長しました。しかし、私自身が信仰厚く、その信仰から司祭になったという訳ではありません。

そこには、父に対するある思いがありました。父は私が小学生の頃から長年、病を患い、寝たきりの生活を20年以上送りました。私が幼少の頃の父は体格も大きく逞しく、片腕でいとも軽々、私を抱き上げてくれました。父の逞しい腕に抱えられ、父にしがみ付き、父の胸元で嗅いたタバコの微かな香りが、父が私にとって“全てのものから何があっても守ってくれる存在”の象徴でした。しかし、その数年後、父は病に臥し、長年の闘病生活で腕は骨と皮だけになり、父の胸元から香るのはタバコの香りではなく、消毒液にも似た薬品の匂いに変わりました。

それから十数年後、大学卒業を控え、夢も希望もなく、将来の展望もないまま学生生活をしていた私に、母はこう告げました。「あなた、司祭にならない?お父さん、あなたに司祭になってもらって、あなたに自分のお葬式をしてもらいたいみないなの」と。

“人生で最初の、そして最後の父親孝行”、“全てのものから何があっても守ってくれていた父への恩返し”…。いろいろな想い、複雑な想いの中で、純粋に“父のために自分が今、できること”を選び、大学卒業後、司祭になるために神学校へ進学しました。その間、必死に学び、懸命に祈り、焦りの中で父の寿命と競争し、6年かけて司祭になることができました。その時、父は…。

その時、父はまだ頑張って生きていてくれました。そして、私が司祭になって2か月後、亡くなりました。父の葬儀を司祭として執り行いながら、私は、父の寿命と私が司祭になる時間を合わせて下さった神の摂理に感謝し、神の存在を心の底から実感することができました。厚い信仰もなく、ただ父の葬儀を挙げるためだけに司祭になった私は、司祭となり、父の葬儀を挙げている最中(さなか)、初めて神を感じ、初めて真の祈りを捧げたのだと思います。そして、その瞬間、本当の司祭になったのだと。

今、私は神への恩返し、そして、私が司祭になることを後押ししてくださった教会・教区の全ての方々への恩返しをするために、そして、神が愛する人類全てのために、司祭として生きています。その恩返しをする方々の中に、もちろん柳城に通う皆さん全ても含まれています。

私は今、皆さんの夢と希望を支えるため、皆さんのために、ここにいます。これから、いつも、傍らで皆さんを支え、応援しています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

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