大学礼拝「マーガレット・ヤング先生を偲んで」 2018/10/31
【フィリピの信徒への手紙4:6-7】
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
今年2018年は柳城の創立120周年(1898、明治31年)、ヤング先生の生誕163 年(1855、安政2年)、来日123年(1895、明治28年)、そして逝去78周年(1940、昭和15年、名古屋において85歳で逝去、八事の教区墓地に埋葬)の記念の年に当たります。
ヤング先生はどんなお方だったのでしょうか。残されている記録や証言、写真などで概略を知ることができます。カナダのオンタリオ州ヴィエンナで幼少時を過ごし、そこのハイスクールを卒業、母校で5年間教師をし、その後1年間カナダ・ロンドン市の美術学校に学び、さらにハミルトン市師範学校保母科に2年間学び、卒業後1890~95年エールマ町幼稚園主任保母として勤務されました。
先生が日本に来られた第一の目的は、宣教師として伝道することでした。1891(明治24)年の濃尾大地震後、名古屋を本拠地としてすでに活動しておられたカナダ聖公会のロビンソン司祭の働きを援助し、家や親を失った子どもたちへイエスさまの愛を自らの身をもって伝えること、子供たちに援助の手を差し伸べることでした。
カナダにそのまま在住し、幼稚園主任保母として働き続ければ、安定した生活が保障され、地位や名声も約束されたに違いありません。しかし、あえてそれを投げ打って40歳という年齢で、しかも病弱というハンデキャップを押してまで彼女に来日の決意を促したものは、物静かな中にも芯の強い彼女が持っていたイエス・キリストへの愛、神を信じる信仰に他ならなかったと思います。
今から120年以上も昔、女性が単身、未知の国、日本にやって来ることは想像も出来ないことでした。彼女が40 年間カナダで学んだこと、教師として体験したことは、日本に来て大きな実りをもたらしました。その当時の日本の状況は、封建的な考え方が色濃く残っており、女性の地位は著しく低く見られ、就学前の幼児教育など殆んどなされていませんでした。そのような中で、ヤング先生は自ら学んで習得したフレーベルの考え方をもとに、保育を通して神の愛を伝えることを中心に、礼拝をし、聖歌を歌い、聖書の話を聞き、祈ることを大切にしたのです。青年たちに英語を教えたり、母親たちには料理やしつけなどを教えたりしました。子どもと大人が一緒に育ちあう場として幼稚園をとらえ、その働きの中から保母養成所が生まれました。鈴木いねという女性を自分の家に住まわせ、幼児教育者として訓練するかたわら、名古屋で初めての幼稚園として、柳城幼稚園を創立しました。そしてこの幼稚園の働きから柳城保母養成所が生まれ、鈴木いね姉が第1回の卒業生となったのです。
フレーベルは幼子と花と音楽をこよなく愛しました。遊戯は運動的な遊戯として、ダンス、行進、唱歌、作業的な遊戯として植物栽培、恩物を大切にしました。その流れをヤング先生も柳城の保育の中に位置付けました。今もそれが柳城の教育、保育の中に底流としてあることを忘れないようにしたいものです。
ヤング先生は1922(大正11)年、健康が悪化し、断腸の思いで帰国されましたが、柳城への熱い思いを断ち切ることができず、1936(昭和11)年、再来日、そして1939(昭和14)年、3度目の来日、翌1940(昭和15)年3月29日、愛する名古屋で逝去されました。
わたしたちが一番大切にしたいことは、ヤング先生の保育への情熱は、神に愛され、生かされていることへの感謝に培われた信仰がその根底にあったことです。名古屋での日々、わたしたちの知らない多くの困難や迫害がきっとあったことでしょう。しかし「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみ言葉に立ち、感謝と願いと祈りをもって生涯を全うされたことを忘れないようにしたいものです。(チャプレン大西修)