大学礼拝「主の祈りの素晴らしさ」2019/5/21
【マタイによる福音書6:9-13】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
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「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節(新約聖書9頁)とルカによる福音書11章2節―4節(新約聖書127頁)に記されています。主の祈りはイエスさまの言われたこと、なさったこと「福音全体の要約である」とテルトゥリアヌスという古代の神学者は言いました。
「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきています。どこの教会へ行っても祈られています。柳城の礼拝でもいつも用いますので、ぜひ覚えてください。
「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしています。イエスさまをこの世にお遣わしになった神さまへの呼びかけです。(2)前半の三つ~神(あなた)についての祈り~と(3)後半の三つ~人間(わたしたち)についての祈り~ から成り立っています。
祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられる(見えなくても、どこにでもいらっしゃる、すべてものを存在させ、わたしたち一人一人に命を与えてくださっている)わたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。あなたは祈る時、どんな神さまに祈っていますか?
信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。
後半に、わたしたちについての祈りがあります。日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。当たり前のこととして、毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。
「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。
誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。
最後には「アーメン」と唱えますが、それは「そうです、そのとおりです、本当に」という意味のヘブライ語です。真心から祈る時、また誰かが祈った時、最後に一緒に「アーメン」と唱えることは、わたしもそう思います、そう祈っていますという心を表明することなのです。(チャプレン大西 修)