大学礼拝「心の内側と外側」2019/9/10
【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
わたしたちは見えないところをきれいにすることをあまり得意としていません。ですから掃除をする時も、見えるところ、例えば部屋の真ん中をまるく掃いてきれいにしますが、それでは隅の方はきれいになりません。隅の方からきれいにすれば、真ん中のほうは自然にきれいになっていきます。
小学校の家庭訪問で担任の先生がおいでになり、お母さんと話しをしていた時、子供が入って来て、いつもおもちゃが入れてある押入れを開けた途端、中からお母さんが投げ込んでいたいろんな物が転がり落ちてきて恥ずかしい思いをしたというた話を聞いたことがあります。コーヒーを飲もうとしてカップを手に取ろうとした時、外側はきれいに見えますが、きれいに洗われていないため、内側にはコーヒーの滓と汚れが付着しており、期待していたようなきれいなコーヒーカップではないことに気づきます。メッキは当初きれいでもやがて剥げます。わたしたちは外側をきれいにすることにどれだけ神経を使い、労力を使い、たくさんのお金を使っていることでしょうか。着るもの、化粧品、アクセサリーなどはまさにその代表的なものと言っていいでしょう。外見は美しくても、心の内側はどうでしょうか。
スッピンの顔は恥ずかしくて見せられないと言います。それならば、スッピンの心は比較にならないほど恥ずかしくて、とても見せられないのではないでしょうか。
律法学者たちとファリサイ派の人々とは、イエスさまの時代、社会の中で人々から敬われていたユダヤ教の宗教的指導者たちでした。イエスさまは彼らとしばしば論争されました。彼らの外側の態度や行動はきれいに見えても、心の内側は見るに堪えない偽善に満ち溢れていたため、そのことをはっきり指摘し、悔い改めを迫りました。しかし、彼らはその指摘を素直に受け入れようとはせず、本当のことを言われたことに憤りを感じ、挙句の果てにイエスさまを無き者にすることによって、偽善者と呼ばれた屈辱を晴らし、自分たちの社会的な立場を固守しようとしたのです。彼らは見栄のため、人に見せようとして律法を形だけ表面的に守り、その精神をないがしろにし、人々に天国への道を示すどころか、閉ざしてしました。それは、最も重要な正義、慈悲の心、誠実な思いを無にしていたからにほかなりません。
わたしたちも内側をきれいにする必要があるのではないでしょうか。一見素晴らく思われることも、それを誤った態度や気分ですることがあるのです。たとえば、ホームレス支援活動で貧しい人々に奉仕している時、この人々はなぜこのように底辺まで落ちてしまったのだろう。きっと何か悪いことをして、こうなってしまったのではないだろうかと、その人々を裁いてしまっていることがあるかもしれません。また、友人が自分にはとても真似のできない勇気ある行動をした時、「すごいなー、立派だなー」と素直な思いを表わせないで、あの人はお金があり、余裕もあるからそれが出来たんだと決めつけてしまうような、醜く狭い心の自分に気づかされることがあります。そのような自分の心の内側が、いかに薄汚く、暗く、傲慢や偽善に満ちているかを思い知らされ、気づかされることは重要です。
わたしたちは誰一人として、自分の心の中に入ってくる思いをすべて制御出来ないことをイエスさまはよくご存じです。しかし、わたしたちにも何かできることがあります。それは自分の態度が間違っていると気づいたときに、迷わずすぐに立ち止まって、イスさまに赦しを願うことです。イエスさまは憐れみ深く、あなたが人を裁こうとしたり、批判したり、怒りの思いに誘われたりするときには助けてくださいます。その瞬間にもイエスさまはあなたの心に、その人に対する愛を溢れさせてくださるかもしれません。
あなたは心の内側も外側もきれいになることができます。イエスさまに目を注ぎ、あなたの心をもっとイエスさまの御心に近いものに変えてくださいと、信頼しお願いすることです。(チャプレン大西 修)