大学礼拝「わたしの母、わたしの兄弟」2020/7/30
【マルコによる福音書 3:31-35】
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
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残念ながら再び対面授業が休止になりました。学生の皆さんは、それぞれの家で学ぶことを余儀なくされています。
知り合いの娘さんが、今年4月に東京の美術系の大学に進学しました。その彼女が、最近、漫画を書いてツイッターに投稿し、ちょっとした話題になっています。内容は、大学生になった彼女の日常の様子を描いたものです。主人公である彼女の言葉などを抜粋して少しお読みします。
「私は大学1年生
春から大学に進学したけれど
同級生の顔も知らない。
ひとり部屋にこもり、画面と向き合い
オンライン授業を受ける毎日。
4月。出会いと新生活の始まりのはずが。何も始まらず。
5月。急に始まるオンライン授業。
6月。オンライン授業。課題。
7月。オンライン授業。課題。
初めて使うパソコン、ソフトに一日中格闘する日々。
相談できる友達や先輩もいない。
「ただいま~。」夜、父が普通に会社から帰宅。
「GO TO トラベル今月スタート。」ニュースキャスターは言っている。
消えていくのは授業日数と変わらない学費。
大学生は、いつまで我慢すればいいのでしょう。」
柳城生も、状況としては、かなり似ていると思います。家庭によって勉強の環境はそれなりに異なるとは思いますが、いずれにせよ、かなりのストレスを抱えながら、それぞれの家で勉強を続けておられると思います。
先ほどお読みした箇所は、イエスが、しばらく外で活動していた後、自分の家に帰った時の様子が描かれている場面です。すでにイエスは噂の人物となっており、大勢の人たちがイエスの家に集まってきました。しかし身内の人達は、外で活躍するイエスを褒めるどころか、イエスはおかしくなってしまったと、彼の行動をやめさせようとします。さらに、イエスの母と兄弟は、イエスの新しい仲間に挨拶するどころか、家の中に入ろうともせず、人に頼んで、イエスを外へと連れ出そうとします。
頼まれた人は、イエスに「母上と兄弟姉妹が捜しておられます」と言います。ところが、イエスはここで衝撃的な発言をします。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてイエスの周りに座っている人を見て、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と答えます。もちろん、これは、比喩の表現ですが、イエスにとっての家、共同体とはどのようなものを意味しているかが、ここによく現れています。
この時、イエスの周りに座っていた人たちとは、たとえば、貧しい人、孤独のうちにある人、病気の人、差別されていた人たちなどでした。したがって、家族だけだった平穏無事な環境は一挙に緊張状態となります。そして、イエスの家族は、彼ら彼女たちを家に迎え入れることはできず、むしろ、イエスから遠ざけようとしました。
イエスにとっての家族とは、いわゆる血縁関係ではありません。また、具体性を欠いた、人類みな家族、でもありません。イエスにとって家族とは、今、ここで、顔と顔を合わせて座っている貧しい民衆たちでした。彼ら彼女たちこそが、「わたしの母、わたしの兄弟」でありました。家族とは、つまり神と隣人への愛によってつながる人たちを意味したのでした。
柳城は、神と隣人に愛をもって仕えることを学び合う場です。そのような場で学んでいる学生が、今、家に帰っています。そして家族がいる中で、愛をもって仕えること、すなわち家族を超え、場合によっては、その家族の平穏無事な場を揺るがすような、隣人への愛の働きを学んでいるわけです。
このように、今、学生たちが経験している緊張とは、イエスが故郷に戻った時に経験したこととつながっているわけです。教職員の方々も、それぞれの家庭や地域などの人間関係の中で、きっと同じような経験をされていることもあると思います。そうした私たち一人ひとりに向けて、イエスは、今、「あなたこそ、わたしの兄弟だ、あなたこそ、わたしの姉妹なのだ」と呼びかけられています。
遠隔授業となってしまいましたが、柳城に連なる私たちは、新たなつながりの中に生きるものとして、神の御心を行う人、すなわち隣人を愛する者として、共に歩んでまいりたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)