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大学礼拝「『先生』と呼ばれてはならない」2020/9/17

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書  23:8-12】
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

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今お読みしました聖書には、私にとりましても、また、ここにいる先生方にとりましても、ちょっと困ったことが書かれています。

「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」。「『教師』と呼ばれてもいけない。」

教会におきましても、聖職者を先生と呼ぶのが習慣になっています。イエス自身が「『先生』と呼ばれてはならない」と言うのにもかかわらずです。では、私たちは、これにしたがって、先生と呼ぶのをやめるべきなのでありましょうか。本当に、先生と呼ぶのをやめる、というのも一つの選択肢なのかもしれません。しかし、ここで言われていることは、単純に、そのように呼ぶのをやめればよい、という問題ではなさそうです。

今日の箇所は、イエスが十字架で処刑されるほんの数日前の会話です。イスラエルの中心地であるエルサレムに乗り込んだイエスは、当時の社会の価値規範を形作っていた宗教的政治的指導者たちと大激論となっていました。イエスは彼ら指導者たちを強く批判し、その結果、逮捕され処刑されることになります。したがいまして、今日の箇所は大変に緊迫した中でのイエスによる厳しい発言です。

イエスは言います。
あなたがた指導者たちは「広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。

イエスは、ここで何を問題にしているのでしょう。それは端的に言って自己満足でありましょう。当時の指導者たち、そして現代の私たちもそうですが、人間は人からの評価に敏感にならざるをえません。人がどう見ているかが気になるのは仕方ないとして、問題は、自分を、なにかの権力や権威、名声を利用して、少しでも高いところ、高い位置に置こうとすることです。職場や学校、地域、仲間内での損得勘定を計算し、その中で高いポジションにつくことで、自尊心を保たせ、自分を安心させようとしてしまいます。そこでは、もはや他者への関心、たとえば困難の中にある人などへの関わりは二の次になってしまいます。

イエスは、そのような、仲間内での勝ち負けに終始して、自己中心的になり、自己満足のために生きてしまうこと、他者に関心を持たないことを、強く批判しているわけです。

「先生と呼ばれてはならない」とは、単に、へりくだった振る舞いをしましょう、ということではありません。もし、自分の地位を確保した上で、その地位を守るために、損得勘定を計算して、多少、謙遜に振る舞ってみせる、ということだとしたら、それ自体が問題なわけです。

イエスが、エルサレムで十字架にかかるまでの短い人生の中で、出会い、共に生き、癒やされた人たちは、そもそも、へりくだる余裕などない、社会のどん底に置かれた人たちでありました。だからこそ、イエスは、エルサレムにおいて「先生」と呼ばれることを好む指導者たちを批判せざるを得ませんでした。彼ら指導者たちは、自分たちの立場を守るために、社会の階層、上下関係を生み出す人たちであり、社会の底辺にいる人たちを見て見ぬ振りをしていた人たちであったからです。

「仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスは言います。

私たちに求められていることは、なにか自分の力で、あるいは何かの力を利用して、自分の立場を高めようとすることではありません。それとはまったく逆で、自分の立場が揺らいだり低くなっていったりすることを恐れずに、どん底にある人々に仕えること、高くなるのではなく、下降していく生き方こそが求められています。イエスは、輝かしい神殿ではなく、むしろ、そうした苦しみや痛みの多い底辺において、今も生きて働いておられることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


キンカン

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