大学礼拝「イエス時代の子どもたち」2020/9/24
【マルコによる福音書9:30−37】
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
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今、お読みしました聖書の記事は、この柳城はもちろんのこと、様々な教会付属の幼稚園や保育園などで大切にされていきた箇所の一つであると思います。
イエスが子どもを抱きかかえるシーン。とても微笑ましい光景でありましょう。
イエスの時代、子どもは、半人前として扱われ、その評価は低いものでした。そんな時代においてイエスは、大人たちが自分たちの中で誰が一番偉いのか、などと議論している、その真ん中に子どもを連れてきて、抱き上げます。そして言います。
「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」子どもを受け入れることは、神を受け入れることなのだ、とイエスは語ります。
大人たち、社会の中で自分がいかに高いポジションにつけるか話す中、社会の隅に追いやられていた子どもを真ん中に招き、抱き上げて高める、そのような光景に、神の働きのダイナミズムを見ることができます。
さて、ここでイエスに抱き上げられている子どもについて、どのようなイメージを持たれますでしょうか。青い空の下、笑顔で、目を輝かせて、イエスを見つめる無邪気で元気な少年・少女、そんなイメージを持たれるかもしれません。
しかし、当時の社会について考えてみますと、ここで登場する子どもたちは、そのようなイメージとはかなり異なっているかもしれません。
イエスの時代、出生時の死亡率は30パーセントに及び、16歳になるまでには、子どもたちの実に60パーセントが亡くなっていたそうです。加えて、飢饉、戦争、社会の混乱の中で、真っ先にその被害を被っていたのは、子どもたちでした。両親が早く亡くなるケースも多く、親を失った戦争孤児も多くいたようです。したがって、実際の様子は次のようなことだったとも考えられます。
国境沿いの、人の多く行き交う町、ローマ軍の駐屯地でもあるカファルナウム。イエスの弟子たちは、そんなカファルナウムに向かう途中、自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと論じあっていました。町に入ると、どこからともなく子どもたちが現れます。戦争で家を失い、ボロボロの服を着て、やせ細った体で、旅行中の弟子たちを食い入るように見つめます。毎日の食べ物に事欠く子どもたちは、旅人から何か貰えないかと、弟子たちに必死についていきます。しかし、弟子たちは議論に夢中で、子どもたちの存在に気づくこともありません。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれません。
一行はカファルナウムの滞在先に到着します。子どもたちもついてきました。イエスは弟子たちに尋ねます。「途中で何を話していたのか。」弟子たちは黙っていました。するとイエスは、子どもを弟子たちの真ん中に呼び寄せて、抱き上げ、そして言います。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」弟子たちは、そこで初めて、子どもたちが一緒だったことに気づくのでした。
イエスが抱き上げた子どもとは、そんな厳しい状況の中にいる子どもたちの一人であったと考えるほうが自然なのかもしれません。
このように考えてみますと、私たちがこのシーンで連想する微笑ましい光景とは、ずいぶんと様相が異なります。イエスは、弟子たちも気づくことのない、最も小さな人たちの存在、そしてその痛みに気づき、手を差し伸べ、抱き上げ、そして、彼ら彼女たちこそが、堂々と、この世界の真ん中で生きていいのだ、生きるべきなのだ、と、宣言されるのでした。その時、初めて弟子たちも、自分たちの周りにいた子どもたちの存在、尊厳に気付かされるのでありました。
現代においても、私たちが気づかないところで痛みを負い、不安を抱えている人たちがいます。私たちもまた、その一人かもしれません。
今、この柳城を始めとする大学生も、かつてない事態の中で大きなストレスをかかえています。しかし大学生の苦労はなかなか周りの人に気づいてもらえません。そんな中でも、必死に学ぼうとしている彼ら彼女たちは、イエスの弟子たちに必死に食らいつこうしていた、あのカファルナウムの子どもたちと重なって見えてきます。
イエスは、そんな人たちの一人ひとりの手を取り、あなたは堂々と真ん中で生きていていいのだ、あなたを受け入れる者は、神を受け入れる者なのだ、と声をかけてくださっています。そしてその尊厳が大切にされるように、世界に働きかけておられます。(チャプレン 相原 太郎)