大学礼拝「ガチで赦せない!」2020/10/13
【詩編19章13節】
知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。
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<はじめに>
皆さんは、過去に「この人を許せない!ガチで赦せない!」と思ったこと、あるいは過去ではなく、今も続いているということはありませんか。
私は、そのことで長年とても苦しい思いをしてきていますので、その話をしたいと思います。
1.きっかけ
私は18歳の時に生まれて初めて聖書やキリスト教の話を聞いて、教会に行くようになりました。そして、22歳の時(大学4年)洗礼の恵みにあずかりました。
教会で、牧師さんの奥さん(A先生)から、子ども用の礼拝の奏楽をピアノでやってみないかと言われ、私は、バイエルくらいしか弾けないので…できないですと断ったのですが、子ども用の曲は割と簡単だし、子どもは5~6人くらい、小さい集まりなので気軽に弾いてみないかと言われ、それならやってみようかと思って引き受けました。
そして1週間後の礼拝で私はピアノを弾きました。それは、つっかえつっかえ何とか弾いたというひどい出来栄えでした。自分でも「まだまだ練習が足りないなあ」と思って反省していたところ、礼拝が終わるとすぐにA先生がとんできて、「あのピアノじゃあ、子どもたちは歌えないわよ。もう来週からは弾かなくていいです。」と冷たく言われました。私の言い分を聴こうともせずに、刀を振りかざしたようなAさんの言葉に、私は、A先生に不信感を抱き、それからはピアノを頼まれることもありませんでした。モヤモヤが残りました。あんな言い方しなくてもいいじゃん、頼んできたのは向こうの方なのに、私も1度はお断りしているし…。ひどいよ。
2.その後
大学卒業後は、地元の静岡で就職し、学生の時とは別の教会へ行くことになりました。伴奏者がいないので、ピアノを弾いてみない、弾いてほしいとそこでも頼まれることがありましたが、私にはどうしてもできず、「下手なので。」と言って今度ははっきりとお断りすることにしていました。あの時のように、また自分が傷つかないようにと自分を守っていたのです。
3.依然として忘れられないA先生への怒り
事あるごとに、A先生の顔が浮かんできて、とても苦しかったです。忘れたい、もう過去の出来事なんだし、Aさんともきっと会うこともないと思いこもうとしますが、自分の意識とは別のところで、コントロールできずにAさんのことが思い出されてきました。次第に、「私はAさんのせいで、こんなトラウマを負うことになったんだ」と相手を憎む気持ちになっていくことに気づきました。
4.祈り「私の罪をお許しください。私も人の罪を許します」
日曜日の礼拝に行くたびに祈る、この言葉が本当に苦しかったです。私はAさんを許すことができていなかったからです。
5.神様と向き合う
それから20年以上が過ぎました。ある時、ふと一人で思いました。「私がAさんのことを許せないと思っているということは、もしかすると、私とこれまで関わりのあった人が、私の言動に傷つき、私のことを許せないとひそかに思っている人がいるかもしれない」ということを。
私は、その場で、自分の罪を言い表しました。小学生の頃、仲良しのひとみちゃんという友達に意地悪なことをしてしまったこと、相手との約束を守らなかったこと、大人になって27歳の頃、私が想いを寄せていた片思いの彼が、私の親友と結婚したのですが、素直に2人を祝福できず、連絡を一切とらずに断絶していたことなど…。思い出せるだけの罪を言葉にして祈り、神様に赦してほしいと祈りました。
最初に述べた教会のピアノでのAさんを恨む思いは、魔法のようには消えませんでしたが、はっきりと自覚したのは、私は「自分こそ神の前に罪人であり、毎日赦しを頂いて生きている存在なのだと」ということでした。
6.コロナで礼拝の奏楽を学生ではなく、教員がすることになった時
4・5月は自宅学習、現在は半日授業になり、奏楽を依頼していた2年生が、奏楽ができなくなりました。「あー、困ったなあ。学生に頼んでいたのになあ」とため息をついた時に、神様からの語り掛けがあったのです。「あなたが弾きなさい。」 すぐに私は「えー、嫌です。私じゃなくて、どなたかが奏楽をなさってほしい。それに神様、よくご存じじゃありませんか。私が以前、ピアノのことでとても傷ついているということを。神様、これ以上私を苦しめるのですか?」と思いました。
神様がとても悲しい顔をしているのが、浮かびました。私は、神様が自分にやりなさいと言って下さっているのだから、神様を信じて、オルガンをやってみようと決め、神様に祈りました。「分かりました、神様。オルガンをやります。神様のために、礼拝のために私を用いて下さい。」すると、不思議と心が軽くなるのが分かりました。
それから私は毎週火曜日の礼拝でオルガンを弾くようになりました。今は、弾くことに対して心が穏やかになり、私を新しく作りかえてくださった神様にとても感謝しています。
神様は、お祈りを叶えて下さる方です。信じて従ってくる者を決して飢えさせないお方です。
最後に、聖書の言葉で締めくくります。
マタイによる福音書6章5節
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
(柴田智世 名古屋柳城短期大学 准教授)