大学礼拝「友と呼ぶ」2020/11/26
【ヨハネによる福音書15章13~15節】
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
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学校にしても、会社にしても、あるいは家族でも、その中での関係性は、法律やルール、常識に縛られていることが多いと思います。一方、友達関係は、それに比べて自由な人格的な関係性、ということができます。友人とは、何かのための手段や目的、道具ではありません。
今日の聖書では、イエスは驚くべきことを言います。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
イエスと私たちは、もはや、なにか社会の常識に縛られた関係ではなく、それらを越え、通常の意味での手段や目的から離れた、自由な人格的な関係になる、ということです。手段や目的から離れた関係性に入る、ということです。
そして、イエスは言います。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
わたしたちの日常生活の中では、自分の命を文字通り捨てる、という選択肢が示されることはほとんど起こらないと思います。しかしながら、瞬間的に命を捨てる、ということはなくても、長い年月をかけて、あるいは生涯を通じて、友のために自分の命を用いていく、ということならばありえるはずです。家族、地域社会、世界の中で、他者のために力を尽くすこと、人生を捧げること、それは、命を捨てることと言ってもいいと思います。
この柳城学院におきまして、学生、教員、職員がおり、それぞれが、様々なルールに基づいて、学校生活を送っています。それはそれとして必要なことではありますが、私達はそれ以上に、そうした手段や目的を伴う関係を超えて、友と呼び合えるような関係性を築いて参りたいと思います。そして、友のために、力を尽くすこと、愛をもって仕えること、言い換えれば、命を捨てること、そのような関係性を、学内だけでなく、この地域に、この世界に広げていきたいと思うのです。
主イエスが、今も私たちに「あなたがたを友と呼ぶ」と呼びかけられ、そして、他でもなくイエス自身が、友である私たちために、十字架で命を落とされたことに支えられて、歩んでいきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)