大学礼拝「柳城のこころ」2020/12/1
【マルコによる福音書 10章13‐16節】
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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神さまはおっしゃる、わたしはちびっ子どもがすきだ
みんなもあのようになってほしい
ちびっ子のようになれないおとなは、大きらいだ
わたしの国には子どもしかはいってもらいたくない
子どもといっても、からだの曲がったのやら、しわのよったのやら、白いひげのはえたのやら、いろいろいるが、子どもには変わりない
わたしが子どもがすきなのはわたしの似姿がまだ曇っていないからだ
それを台なしにせず、新鮮に純粋にしみもなく、きずもなく保っているからだ
だからかれらにやさしくよりかかればかれらの中にわたしの姿が見えるのだ…
わたしが子どもがすきなのは、かれらがまだ、もだえながら罪をおかしているからだ
かれらがそれを知りつつ正直に告白し、もうおかすまいと、いっしょうけんめいに努力しているからだ
M・クォースト「ちびっ子どもが好き」より (『神に聴くすべを知っているなら』所収)
この詩の背景に、二つの聖書の箇所が浮かんでくる。一つは、「創世記」1章27節の「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」という箇所であり、もう一つは今日朗読した「マルコによる福音書」10章13~16である。
もっとも、この詩では、文字通りの子どもだけでなく、大人も含まれている。
授業で、大人と子どものさかいについてよく尋ねることがある。学生は18歳と20歳に分かれるが、少数の学生は年齢では区切れないと回答する。たしかに大人とこどもの境界は明確に区切れないようにも思われる。ある作家が、ひとと言うのは、その中心部分に子どもがあり、その周りに、ちょうど樹木の年輪のように、大人の部分が増えていく、とたとえているが、わたしのイメージもそれに近いものがある。
来年は東日本大震災から10年目になるが、柳城は、数年にわたり、夏休みごとに東日本大震災の被災地ボランティア活動を行った。
ある年のプログラムは、福島県の仮設住宅の子どもたちと夏休みの何日かを過ごすというものであった。その年の子どもたちは仮設住宅での長期的生活でストレスがたまっていた。全国からボランティアの申し入れがあり、そのなかには有名な音楽グループの演奏会などもあったりした。ただ、子どもたちはストレスがたまっているためか、その演奏に集中して聞けずに、騒ぎ始め、演奏している人びとが怒ってしまったという話も伺った。わたしたちが福島入りをしたのはその直後であった。子どもたちの心が不安定だとも聞かされた。うちの学生はどうするだろうかと心配しつつ見守っていた。しかしその心配は、柳城の学生が関わってからしばらくして聞こえてきた子どもたちの笑いとともに消え去った。
子どもが真ん中に立ち、学生であるお姉さんたちは、その周りに円になり座り込みながらじつに楽しそうに、子どもの話を聞いている。子どもも嬉しそうだったし、それに耳を傾けるお姉さんたちの姿も嬉しそうだった。もちろん、子どもはあばれたり騒いだりするようなことはなく、短い期間ではあったけれども、子どもたちとお姉さんはとてもなかよしになっていった。
柳城の生活の中で、思い出に残る光景の一つである。これぞ「柳城のこころ」かなと思うような一場面であった。まるで聖書の一場面のようだった。真ん中に子どもがいて、その周りに大人がいて、子どもの言葉に耳を傾けている。
子どもが自分の人生の主人公であると感じることができるのは、小さい時のこのような体験の積み重ねなのではないだろうか。演奏会のグループもすてきな演奏をしてくれたのかもしれないけれども、子どもたちにとっては、またおとなしく聞かなければならないというような体験でしかなかったのかもしれない。
一度しかない人生の最初の段階で、自分が自分の人生の主人公であることをお手伝いできる仕事はとてもすてきなことであり、幼児教育・保育に関わる者に課せられた大切な使命ではないだろうかと思っている。
いま柳城で学んでいるみなさんも、子どもの心をいつもその中心に置きながら、学び続けていくことを是非とも忘れないでいただきたい、そのように心から願っている。(理事長/学長 菊地伸二)