大学礼拝「地上に火を投ずるため 」2021/5/6
【ルカによる福音書 12章49‐52節】
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
イエスは、ガリラヤという辺境の地で宣教活動をしていました。ところが、その活動を通じて、首都であるエルサレムの宗教や政治の指導者と決定的に対立することになります。しかしながら、イエスは対立を避けようとはしませんでした。遠からず十字架によって自分が処刑されてしまうことを知りながらも、イエスは首都エルサレムに向かうことになります。今日の箇所は、その厳しい対立状況の中でのイエスの発言です。
イエスが生涯求め続けたのは平和でした。しかし、イエスが平和を願えば願うほど、当時のエルサレムの支配体制はイエスの活動を問題視します。なぜならば、イエスが宣べ伝える平和とは、誰にでも当たり障りのない平和ではなく、エルサレムの支配体制の矛盾を明らかにすることが含まれていたからです。支配者にとって、これは大変都合の悪いことでした。イエスが平和を宣べ伝えることで、社会にあった矛盾、対立、分裂が表面化していったわけです。その対立は、イエスが首都エルサレムに近づくほど鮮明になっていきました。そのことがイエスの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためだ」という発言の意味と考えることができます。
今日の箇所でイエスは、家族の中の対立が避けられないとも発言しています。日本では、一般に神社仏閣などで家内安全を願います。このイエスの発言は、そうした願いを否定するかのように感じるかもしれません。もちろん家庭の平和を願うこと、それ自体は悪いことではありません。問題は、そのように家内安全を祈る時、その家庭の中にある矛盾や対立が隠されてしまわないか、ということです。
たとえば、家内安全という時、家庭内において男性による女性への支配を固定化してしまうことがあるかもしれません。子どもに対する暴力的な対応があるかもしれません。あるいは、家族以外の他の人たちの排除につながってしまうことがあるかもしません。イエスは、私達が何となしに平和や家内安全を願うことで社会の矛盾や支配の構造が覆い隠されてしまうことを、厳しく問うているように思います。
今日のイエスのメッセージは大変に厳しいものです。しかし、イエスは対立を暴露して終わり、ということではもちろんありません。ただ古い人間関係を壊すことが目的ではありません。イエスは、人の間に見え隠れしている対立を明らかにすることを通して、平穏無事に過ごそうとしてしまう私たちに気づきを与えます。そのようにして、分裂した関係を乗り越えた豊かな関係性、愛によって仕え合う関係性を私たちの間に回復しようとされるのでした。
私たちは、自分を中心にした生き方、この世の価値観に押し流された生き方をどうしてもしてしまいます。しかし、イエス・キリストに自分の生き方の軸を置き直すこと、イエスが示された神の国に信頼することによって、私たちは自由になり、本当の平和、豊かな人間関係を生きることができるはずです。私たちの社会に横たわる対立や矛盾が解消され、愛によって仕え合う関係へと変えられていくよう、祈り求めていきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)