大学礼拝「良い羊飼い」2021/6/3
【ヨハネによる福音書 10章11-16節】
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
新約聖書の時代、羊飼いの仕事は、毎朝羊の群れを囲いから出して牧草地に導き、夕方になるとまた囲いの中に連れ帰るというものでした。遠くの場所に連れて行く時には野宿しながら夜通し羊の番をしていました。大変な重労働だったそうで、現代風に言えば、いわゆる3K、きつい、きたない、危険な働きでありました。当時としては必ずしもイメージの良くない羊飼いであったわけですが、イエスはあえてその3K的なイメージを重ね合わせ、自分はそのような働きを担う羊飼いだと語ります。
ここで良い羊飼いと雇い人が対比されています。良い羊飼いは自分の羊のために命を捨てます。しかし、雇い人はいざとなったら自分の都合を優先し、羊を置き去りにして逃げるというものです。
イエスは、ユダヤ教の権威である教師たちに向かってこの羊飼いの話を語りました。なぜイエスが教師たちに向かってこの話をしたかというと、次のような出来事をめぐって教師たちがイエスを非難したからでした。それは、生まれつきの目の見えない人が、イエスの言う通りにシロアムの池に行くと、目が見えるようになって帰ってきた、という出来事です。イエスは目の見えない人に出会い、彼にシロアムの池に行くように指示して癒すのですが、それを行ったのがユダヤ教の安息日、すなわち働いてはならない日でした。
この出来事の後、ユダヤ教の教師たちが登場します。そして彼に対して、誰がこのようなことをしたのかと問いただします。イエスだと答えると、教師たちはイエスがユダヤ教の規定を破って安息日に働いたことに憤慨し、イエスによって癒やされた彼を街から追放してしまいます。誰にも見向きもされていなかった彼は、イエスによって立ち直り、ユダヤ社会の一員として、失われた人生を生きなおそうとしていました。それなのに、ユダヤ社会から追放されてしまったのでした。
彼が追放されたことを知ったイエスが、ユダヤ教の指導者たちのところに出向いていって語ったのが羊飼いの話です。「羊のことを心にかけていない」、「羊を置き去りにして逃げる」というのは、当時のユダヤ教の指導者たちのことであると言えます。彼らは、真面目に律法を守ろうとしていた人たちではあります。しかしながら、彼らが律法を厳格に守ろうとするあまり、杓子定規に人を排除し、追放してしまうことをイエスは批判したのでした。
羊飼いが何千もの羊を全て見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスは、当時の宗教指導者が排除してしまう人々をこそ心にかけ、その痛みや苦しみを理解し、その人たちのために命を尽くすべきであると考え、実際そのように行動したのでした。
私たちの社会にも様々な形で排除されている人たちがいます。そして私たち自身もまた、弱く、小さなもの、さまざまな欠けがあるものです。羊飼いが羊のために、きつい、きたない、危険な場所に赴くように、イエスは、人々の弱さや欠け、悩み、恐れ、至らなさの中に降りて行かれ、それらを自らのこととして受け止めておられます。
良い羊飼いが、全ての羊を一見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスが私たち一人一人の名前を呼び、そして、この社会から排除されている人々の痛みや苦しみの現場に自ら出向いていかれることを覚えたいと思います。そして、私たちも、そのような者として歩むことができるよう、努めてまいりたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)