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大学礼拝「カナの婚礼」2021/9/16

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書 2章1~11節】
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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 カナでの婚礼において、お酒が足りなくなったので水を美味しいワインに変えたというのが、ヨハネによる福音書でのイエスの最初の奇跡物語です。イエスによる奇跡と言ったら、例えば、病人を癒すとか、大勢の貧しい人が少量の食べ物を分け合って満腹になるなどがイメージされます。ですので、最初の奇跡であれば、例えば、水を薬に変えて飲ませたら不治の病から回復したというような奇跡が相応しいのではと思ってしまいます。なぜイエスは最初に、宴会で水をワインに変えるというような奇跡を行ったのか、あるいは、どうして福音書を記したヨハネは最初の奇跡の記録としてこの物語を選んだのでしょうか。

ポイントとなるのが水です。イエスがワインに変えた水がめの水は、本来、清めの水として用いるものでした。清めの水とは何かというと、当時の律法にしたがい、外出した後に家に入る前に手を洗う際などに用いるものでした。外出すると不特定多数の人とすれ違います。その中には、律法を守らない人、守れない人がいました。具体的には、外国人などが想定されていました。そういう人たちは律法を守っていないがゆえに、汚れているとされていました。したがって、外出すると、汚れた人とすれ違っているかもしれないから、外から帰ってきたら手をしっかり洗って清めなければならない、ということになっていました。
清めの水とは、このように、あの人は汚れている、私は汚れていない、だから清めの水で汚れを洗い流し、自分を守るのだという形で、人と人とを分離するものでした。イエスがワインに変えた水とは、そのような清めの水であったことが物語の鍵と言えます。
イエスは、当時差別されていた外国人、障害をもつ人、重い病にある人と、積極的に関わりを持ちました。そして、社会に張り巡らされた人と人とを隔てる壁をなくして、共に生きる神の世界をこの地上に実現されようとしていました。
そんなイエスにとって、人と人との関係を分断する清めの水などは無用でありました。そんな清めの水などいらないのだ、人間を汚れた者と清い者とに分けること自体がそもそも間違いなのだ、ということです。

さて、宴の席でワインがなくなったことを知ったイエスは、この清めの水を飲んでしまおうと提案しました。それはすなわち、人々を分断する水を飲んでしまうということによって、そこでの人々の交わりを真に豊かなものにする、ということです。これこそが、水を極上のワインに変えたということの本質的な意味であるように思います。 イエスはこのようにして、すべての人々が隔てなく一緒に生きることを求め、人々の暮らしや生き方を一変されていくのであり、その最初の事件がカナでの出来事でありました。

 

現代の私たちも、様々な分断の中で生きています。日本人と外国人、女性と男性、障害者と健常者など。そのような分断によって差別も生まれます。カナの婚礼において、分断の象徴であった清めの水が一致の象徴であるワインに変えられたように、現代においても、分断を取り除き、共に生きる喜びが分かち合われることが求められています。全ての人が隔てなく共に支え合って生きること、そのようなヴィジョンに支えられて、歩んでまいりたいと思います。


芝生のショウリョウバッタ

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