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大学礼拝「『愚かな金持ち』のたとえ」2021/10/7

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書 12章13~21節】

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

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イエスは言います。「貪欲に注意しなさい。有り余るほどの財産を持っていても、人の命は、財産によってはどうすることもできないのだから。」
人間の生命そのものは、財産や所有物によって成り立っているものではない、ということです。これを聞きますと、お金で寿命は延ばせない、死んでしまっては何もならない、という意味に捉えられると思います。それは確かにそうなのですが、人の命は財産ではどうにもならないという時の「命」という言葉は、単に生物学的な意味での命ではなく、人間の生死を超えたクオリティとしての命、命の質ということを意味します。したがって、ここでの「人の命は財産によってはどうすることもできない」とは、命のクオリティを財産によって高めることはできない、ということです。

このことの意味を明確にするために、イエスは譬えを話します。
ある金持ちが持っている畑が大豊作になりました。その金持ちは悩みます。収穫物をしまっておくところがないためです。そこで、彼は、現在の倉を一旦壊して、もっと大きな倉を新たに建てて、そこに保管することにします。収穫物を溜め込んで安心した彼の前に神が現れて言います。「せっかく財産を蓄えたようだが、今夜、あなたの命は取り上げられてしまう。」

自分の財産を少しでも蓄えて将来に備えて安心したいと思うのは当然だと思います。それはそれとして必要なことです。ここで、イエスが問題にしているのは、私たちが生命を維持し、健康的な生活を営むために必要な蓄えのことではありません。問題なのは富と呼ばれるものです。それは端的に言えば、普通の暮らしをしても、あり余る財産やお金のことでありましょう。
ここに登場している金持ちの態度を見ると、財産を蓄える、と言っていることの意味がはっきりしてきます。特に金持ちのセリフの原文は印象的です。私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産というふうに、やたらと「私」という言葉が出てきます。この金持ちの関心ははっきりしています。自分です。自分のことだけです。
現代においても、食糧の分配の不平等は世界的な問題ですが、それは当時も同じでした。にもかかわらず、彼はその不平等を見ようともしません。彼が倉庫を建てて蓄えようとしていた食糧は、彼の、あるいは彼の家族が食べていくために必要な量をはるかに超えていました。このことが問題であったわけです。
食糧を独占しようとする彼の自己中心的な態度について、イエスは、人の命は財産ではどうにもならない、と言ったのでありました。それはすなわち、財産をいくら自分の中に貯め込んでも、いのちをクオリティ、命の質を高めることにはならない、ということです。

そしてイエスは「自分ために富を積んでも、神の前に豊かにならない」と言います。これは、シンプルに言い換えれば、私たちが自らの富を他者と分かち合うことこそが、私たちの生きる質を高め、神の前に豊かなものにされる、ということでありましょう。それは、この物語が示しているように、「私が、私が」と自己中心的にならないということです。すなわち、相手の命を輝かせることこそが自分の命を輝かせることになるのであり、それによってこそ、私たちは神の前に豊かに生きることができる、ということです。ついつい自己中心的になってしまう私たちですが、他者と分かち合うことを通して、命の質を大切にする生き方を追い求めていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

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