大学礼拝「わたしが示す地に行きなさい」2022/4/20
【創世記12:1~9】
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
旧約聖書の創世記の中で、神はアブラハムという人物に対して、あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へと旅立て、と言います。このアブラハムという人は、後に信仰の父と言われるようになる重要な人物です。そんなアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。
当初、アブラハムは、カルデアのウル、というところに住んでいました。彼はそこから旅立ち、ユダヤ民族の基礎を築くことになります。アブラハムが、神の呼びかけに応えて、生まれ故郷を離れて旅立ったことから、ユダヤ・キリスト教歴史がスタートしたとも言えます。
先ほどの聖書の箇所を読みますと、神は、アブラハムに旅立て、と言っているのですが、しかし、どこに向かってかについては、はっきりと言わず、目的地は曖昧でありました。というのも、ここでは、目的地よりも旅立つこと、そのものが重要であったからです。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」
これが何を意味するかというと、慣れ親しんだ故郷から、あるいは、同じようなバックグラウンドを持って固まって生きる人たちの間から離れて、旅立て、ということでもあります。
この神の呼びかけに応えて歩むアブラハムの姿こそ、ユダヤ教、キリスト教のアイデンティティ、自己理解を示すものでもあると思います。そしてそれは、キリスト教主義の学校である柳城が、どのような学びの共同体なのかを、表すものでもあります。
それはつまり、私たちは、当然と感じて慣れ親しんでいる場所や人のつながり、すなわち、地縁や血縁、住み慣れた場所から離れ、神の示す地に向けて、共に旅をする者たちだ、ということです。
私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、社会の常識に、縛られながら生きています。そんな中で、私たちは、今日、あらゆることに対して、安定を求めがちです。そして、自分の人生を旅として歩むことに臆病になっています。しかし、人生とは、何かマニュアルに沿って、与えられた台本をなぞるようなものではないはずです。人生は、本来、旅でありましょう。今日の聖書の物語は、私たちをしばっている当たり前、秩序、安定、マニュアルから離れ、旅立つことを促しています。
私たちは、今、この柳城という、キリスト教会によって建てられた学校で過ごしています。それは、私たちが、神の呼びかけ、すなわち「わたしが示す地に行きなさい」という呼びかけに応え、共に旅をする者たち者たちとして、招かれている、ということを意味します。真理を求め、そして、愛をもって人々に仕えていくために、共に旅をする仲間として、今、ここに招かれている、ということです。柳城の一員として、本当に大切なことは何かを探し求め、常識に安住せず、共に旅をし続ける者たちでありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)