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大学礼拝「人が独りでいるのは良くない」2022/4/27

カテゴリー:大学礼拝

【旧約聖書 創世記2章18~25節】
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

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今日の聖書も、旧約聖書の創世記から選ばせていただきました。

創世記1章は、神さまがこの世界をとても素晴らしい世界として創造され、わたしたち人間を神さまの似姿に造られて、一人ひとりがかけがえのない存在であることを明らかにしてくださっていました。ところが、今日の2章18節は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と記されています。とても素晴らしい世界に造られたのに、良くないと言われています。その理由は、1章の天地創造の話しと、2章の人間を造られたお話しは直接には続いていないからなのですが、ここで聖書は人間が孤独な状態が、神さまの創造の目的に適っていない状態で、良くないことなのだと語るのです。

このお話しは、もともと村の共同体の中で、長老が結婚適齢期の若者を集めて、結婚について教えるために語り継がれて来た物語であったと考えられています。その証拠が、24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という言葉です。
人間はそもそも一人ぼっちで生きる存在ではないこと、誰かといっしょにに生きるように造られたことを、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と念を押しているのです。そしてさらに19節では、神さまが「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり」人の所に連れて来ますが、動物の中には「自分にあう助ける者は見つけることが出来なかった」と報告しています。現代のペットを擬人化し、家族同様に思う人を生み出しているペットブームの中では、非難されそうな記述ですが、動物の中には「ふさわしい助ける者」は見つけられなかったと、聖書は語るのです。

この2章の創造物語で、7節にあるように人間は土のちりで形造られ、その鼻に神さまから「命の息」を吹き込まれて「生きる者」となっています。「生きる者」であるのは、人間も海の魚や動物、空の鳥など、他の動物などと同じですが、他の生き物とは違って、特別に「命の息」が神さまにより直接吹き込まれて造られたこと、すなわち神さまに似る者として、神さまのかたちに造られたことが語られています。
そのように人間の尊厳について語られている箇所であるにもかかわらず、残念なことに、この2章の創造物語は、しばしば女性差別を肯定するように読まれてきた歴史があります。わたしたち柳城学院が、新たに柳城女子大学という形で、男女間の扱いの違いを無くして行こうと言う時代に、わざわざ女性に特化した教育を選び取っている理由は、まさに女性への不平等を解消して行くことがその理由に挙げられます。だからこそ、この創造物語がしっかりと男女平等を語っているということを、柳城生の皆さんには知っていてもらいたいと思います。
今日はしっかりと触れることは出来ませんが、例えば、2章18節の「彼に合う助ける者」という表現があります。この「助ける」が誤解され、なぜか女性が「男の補助者」として造られたのだと解釈されることが多くありました。しかし、この「助ける」は、ヘブル語では「エーゼル・ケネグドー」ですが、神さま自身が弱い人間を助けるために働いてくださるときに使われる単語です。「助ける者」は、その存在が無ければ欠けを生じてしまうほど、互いに必要な存在を意味しているのです。女性も、男性も互いに助ける者として尊重し合う、存在としてあることを今日の聖書の箇所は教えているのです。

さて、このお話しは結婚の準備のお話しだと申し上げましたが、24節では人間が親離れすることがまず語られます。成人した二人がともに「ふさわしい助ける者」同士、互いを大切にして、助け合い、愛し合って過ごしてゆく、人間の人生の歩みが豊かな出来事として記されています。未熟で、独りでは生きて行けないから、助ける者の存在が必要なのではありません。「自立」した二人が、互いに交わることで、お互いの違いを楽しんでいくことが、人生の醍醐味なのだと教えてくれているのです。
この後、人間が神さまとの約束を破って、「善悪の知識の木」の実をとって食べ、罪が入ってしまった時、二人の人間は、責任の擦りあいを始めてしまいます。それ以来人間の歴史は、お互いに愛し合い、支え合い、分かち合う歩みではなく、足を引っ張り、憎み合って争い、奪い合う歩みに終始することになります。家族の中でも、社会の中でも自己中心的な歩みをしているわたしたちは、せっかく神さまが、交わりの中に、わたしたちの生命を与えてくれたにもかかわらず、その交わりを喜べなくなっています。わたしたちの最大の悩みは人間関係です。良い形で人間関係を結べませんので、わたしたちは今日の聖書の呼びかけとは反対に「ひとりでいるほうが良い」のだと感じてしまうほどです。
にもかかわらず、「一人でいた方が楽だ」、「人と交わらずに、人間関係で悩まないことが幸せだ」と交わりを紡ぐことを諦めているわたしたちにとって、「人がひとりでいるのは良くない」という神さまの言葉は、どこか心惹かれる言葉です。神さまは、わたしたちが散々人との関係で傷つけられ続けていても、独りでないことがわたしたちが生命を与えられた目的なのだと力強く語りかけてくださるのです。人は、みんな違った存在です。でもその違いゆえに、わたしたちはお互いに助け合う機会が与えられるのです。わたしが一人では経験出来ないことが、互いに交わりの中で分かち合えるのです。さまざまにちがうわたしたちが、実際には互いに支え合い、分かちあい、愛し合うことが出来ずに傷つけ合うことが多かったとしても、誰かといっしょに歩むことの方が、一人で何ごともなく、過ごすことよりは「良い」のだと教えられているのです。

ですから、独りでいないで、交わるように生命を与えられていることを、積極的に受けとめて、傷つけ合うのでは無く、愛し合い、支え合い、分かち合う交わりを、この柳城での生活の中で紡いで行きたいと思います。  (チャプレン 後藤 香織)


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