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大学礼拝「心の貧しい人々は、幸いである」2022/11/9

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書5:1~12】
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

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 今、どのような人が幸いな人、恵まれた人でありましょう。一般的には、ある程度経済的に裕福である人、あるいは、社会の中でステータスのある人、活躍している人などが、そうでありましょう。それはイエスの時代でも同じでした。

一方、山に集まってイエスの話を聞いていた人達とは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から外れてしまった人たち、貧しい人たちでした。幸せな人生、祝福された人生とは、縁遠い人たちでした。彼らは、神の恵み、祝福から見放された者だと思っていました。
イエスはそうした人たちにむけて、こうすればあなたたちは救われますよ、このように頑張ればあなたは恵まれた人生を歩めるでしょう、と教えることはありませんでした。そうではなく、イエスは、「心の貧しい人は、幸いである」と語り出します。すなわち、ここにいるあなたたちこそ、今、幸いなのだ、と述べます。

ここで使われている「幸い」、という言葉は、私たちが普段使っている「幸せ」とは異なります。通常の「幸せ」という言葉は、なにか自分に良いことが起きたときに変化する感情、感覚のことです。しかし、ここで使われている「幸い」とは、祝福されている、ということを意味します。神によって祝福されている、神によって大切にされ、愛されている、という状態です。それは、時間や状況によって変化する感情ではありません。自分の努力の有無によって消えたりするものでもありません。

この山上の説教は、イエスがガリラヤでの活動の最初に語られたものです。それが何を意味するかというと、この山上の説教が、イエスがこれから生涯をかけて行う生き方そのものを提示している、ということです。
イエスが、幸いだ、と宣言する、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人とは、イエスが生涯をかけて出会った人たちのことです。イエスがそうした人々と生涯をかけて交わることによって、彼らは癒され、生きる望みを回復していきました。そして、イエス自身も、人々に寄り添う中で、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人となっていきました。心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害を受ける人、これらはイエスの生涯そのものです。イエスは、そのような生き方こそ、幸いなのであり、神によって祝福されているのだ、と言われるわけです。山上の説教とはイエス自身のことでもあるわけです。

この説教を語り終えたイエスは、実際、生涯をかけて、徹底して貧しくなり、悲しむ人とともに悲しみ、平和を実現しようとされ、義のために迫害されました。そして、十字架と復活によって、天国は義のために迫害される人のものである、ということを現実のものとされました。だからこそイエスは、受け入れがたい現実の中でも、貧しい人は幸いである、語ることができたのでありました。

この山上の説教が行われたのは、どこかの神殿の中ではありません。誰もが出入り自由な山の上です。このイエスの説教は誰にでも開かれているということです。山上の説教は、私たちの心の奥底にある悲しみ、弱さに、今も、語りかけています。心の貧しい人々は、幸いである、悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、天の国はその人たちのものである。  (チャプレン 相原太郎)


コバノランタナ

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