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大学礼拝「食べて満腹した」2023/7/12

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書 第14章13~21節】
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

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 聖書の中には、イエスさまが人々と食事をするシーンがたくさん出てきます。今日の5000人の食事もその物語の一つです。

人々が大勢イエス様のところに押しかけてきました。彼らの多くは、貧しい人、病気の人、罪人と呼ばれて社会から排除された人たちでありました。夕暮れになりました。弟子たちは、そろそろ解散にしましょう、そして夕食に食べるものを買いに行きましょうとイエスに提案します。しかしイエスは言います。「ここにいる人たちみんなに、あなたがたが食べ物を与えなさい。」弟子たちは、これだけの人々に配る食べ物なんてありませんとイエスに言います。しかし、イエスは、弟子たちが持っていた少量のパンを手に取り、感謝してこれを割いて、弟子たちに渡します。すると、そこで何かが起きて、そこにいたすべての人達は満腹になりました。

実際に何が起きたかは確かめようがありませんが、次のようなことが考えられます。最初に、イエスと弟子たちが持っていたパンを全て差し出します。すると、その様子を見ていた周りの人たちは、そのパンが入った小さなカゴが回ってくると、それぞれがポケットやカバンに持っていた食べ物を差し出したのではないか、ということです。場所は、人里離れたところです。自分の食べるものぐらいは持っていたはずです。みんなのために全てのパンを差し出すイエスを見て、自分も一人だけで食べるわけにはいかないと思い、それぞれが持っていたものを差し出し、そのようにして、食べ物は減るどころか、むしろ、増えていった、ということです。

そんなものは奇跡ではない、と思うかもしれません。しかし、大人数での食事は、当時の常識ではあり得ない、奇跡的なものでした。例えば、当時の社会において守るべき規則として、食前に手を洗い清めること、というものがありました。この手洗いは、単に手を清潔にする、というだけではなく、外でどんな人に触れているかわからないから穢れた手を清める、という宗教上の理由がありました。しかし、これだけの人数が一緒に食事をしたわけです。誰に触れたかわからないといったことを理由に手を洗ったとは思えません。また、同じようなことですが、穢れた者と食事の席を共にしないこと、という決まりもありました。5000人で一緒に食事をしたわけですので、そこに誰がいるのか、もはや誰にもわかりません。しかも、そもそも、イエスの周りに集まってきた人たちとは、社会から排除された人たち、つまり罪人や穢れた者ということです。そのような人たちが大勢集まって、堂々と一緒に食事をするなど、当時では考えられないことでした。

当時の社会には、清いもの、穢れているもの、という区分けが、宗教によって張り巡らされていました。そうした中で、イエスは実際に一緒に食事をすることを通して、そのような区分など無効なのだ、ということを人々に示したわけです。そして、清いもの、穢れたもの、というような区分による壁を壊して、人と人との本来のつながりを回復していきました。そこでは、こぼれ落ちる人もなく、人々は満たされたのでした。このようにして、当時の社会ではあり得ない世界、いわば神の国が目の前に展開されました。これは、当時としては奇跡と呼ぶに値するものであったに違いありません。

この出来事は、4つある福音書の全てに記されています。つまり、この食事は、イエスを特徴付ける忘れるわけにはいかない出来事であったということです。もちろん、実際にどのようにしてみんなが満腹したのかは確かめようがありません。しかし、このような奇跡物語が全ての福音書に記されているということは、その出発点には、イエスがそこに集まった多くの人たちと、当時の社会常識を大きく乗り越えて、みんなで一緒に分け合って食べた、という経験があるはずです。

今、イエスは、そのような食卓の分かち合いに私たちを招いておられます。今、ここにいる私たちは、物理的には飢餓の状態ではないかもしれません。しかしながら、この社会の中で、時には不条理なルールにしばられ、時には人のつながりを断ち切られるような仕組みの中におかれ、不安や孤独に脅かされることもあると思います。そのような中で、イエスは、人と人とを分断する様々な壁を乗り越えて、つながりを回復することを求めておられます。そしてそれは、私たちが、これは自分だけのものとして隠し持っているもの、独り占めしているものを分かち合うことよってこそ、実現するはずです。   (チャプレン相原太郎)


ランタナ

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