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大学礼拝「神が結び合わせた者」2023/9/13

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書10章2~9節】
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

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 今日の箇所では、まずユダヤ教のファリサイ派の人が登場します。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中でも、とりわけ律法のさまざまな規定に忠実に従って暮らしていた人たちです。そのファリサイ派がイエスに、「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」と問いかけます。夫が妻に離婚を言い渡すことは、正しいですか、と聞いているわけです。
当時の離婚は、基本的には、夫に強い決定権がありました。夫だけが自分の都合で、妻を自由に離縁することができる、ということです。しかもその都合が、いかなる場合であっても認められるというのが、ファリサイ派の基本的な考え方でした。実際、当時、鍋を焦がしたといった本当に些細で身勝手な理由で、夫は妻と離縁する人たちがいました。しかし、ファリサイ派は、そうした離縁も、律法に基づいて手続きが行われれば許される、と考えていました。
当時の社会では、夫から離縁させられた女性は、穢れたものとされ、再婚も困難でした。女性たちは生計手段を持っていませんでしたので、離縁とは、そのまま路頭に迷うことを意味します。

イエスがこのような離縁のあり方を批判していることは、ファリサイ派も知っていたはずです。しかしその離縁は、形式的には、律法に基づいているわけです。ですので、イエスがもし、夫が妻を離縁するのは間違いだ、と言い出したら、イエスが法律を無視する発言をしたとして、告発しようと思っていたわけです。

そこで、イエスは、ファリサイ派に「モーセはなんと命じたのか」と尋ねます。するとファリサイ派は「離縁状を書いて離縁することを許しています」と答えます。確かに聖書にはそのように読める記述があります。しかしながら、それは、本来、女性の権利を守る意味合いがありました。というのも、離婚する夫は、離縁状を作成する際に、自分自身の身勝手さを認めるような形で署名をしなければならなかったそうです。イエスは、身勝手な男性による離縁という問題意識から、聖書はそのように記したのだ、ということをファリサイ派に述べます。

そして、イエスは、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」と語ります。この言葉は、結婚式の大切な場面でよく用いられる箇所です。しかし、この言葉は、もともとは結婚式に臨んでいるカップルに対するものではありません。また、単純に、離婚をしてはならない、ということでもありません。
この言葉は、夫の全く身勝手な理由で離婚するのは許されない、男性の身勝手によって女性が苦しむようなことがあってはならない、ということです。

「結び合わせた」という言葉は、もともとの意味は「複数でくびきを担う」ということです。くびきとは、家畜が一緒に荷物を引っ張るための道具です。つまり、結び合わせるとは、重荷を一緒に並んで共に担う、ということです。男性が女性を支配するのではなく、男性も女性も、神のもとで、一緒に重荷を分かち合う関係となるのだ、ということです。
イエスの時代、男性と女性はそもそも対等ではありませんでした。一夫一婦制すら確立していませんでした。そうした中で、イエスは、全ての人は、そして夫婦となるカップルは、神の前で等しく尊厳を持っているのだと、激しい平等を主張したのでした。

そして、このことは、結婚する男女カップルの関係だけのことではありません。あらゆる人間関係について、言うことができます。私たち人間は、そもそも共同体的に生きるように創造されています。私たちは、生まれながらに繋がりあって生きています。そもそも、世界の全ての人は、本来、「神によって結び合わされた者たち」に他なりません。愛によって仕え合う関係、それが、神によって結び合わされた状態である、ということです。
神に結び合わされているはずの関係なのに、例えば、男性の都合、あるいは、大人の都合、あるいは、力の強いものの都合によって、一方的に支配するようなことがあってはならないわけです。

私達の社会には、さまざまな不平等が存在しています。そうした中で、私たちは、神に結び合わされた者、共に生きる者として創造された者、対等に共にくびきを担うものとしての関係を、築いていきたいと思います。

時に、私たち自身も、この社会から切り離され、その存在を否定されるようなことがあるかもしれません。イエスは、そうした私たちの間に立って、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」のだ、と宣言されます。私たちは、そのようなイエスによる宣言を通して、私たち一人一人が、神のかたちに似せて創られた尊厳を持つ者であり、共に繋がりあって生きる者として造られたことを覚え、日々を過ごしてまいりたいと思います。     (チャプレン 相原太郎)


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