大学礼拝「宴会を催す時」2023/10/4
【ルカによる福音書14章7~14節】
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
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今日の箇所を読みますと、日本の上座・下座の文化の話に聞こえてきます。謙虚でいなさいというような教訓に聞こえるかもしれません。そして、これが天国のたとえであるとすると、天国は日本の宴会の場のようなところなのかと思うかもしれません。天国には序列があるのかと、思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。
ここで大事になってくるのが、この場面で誰がこの話を聞いていたか、ということです。それは、ユダヤ教のファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派は、当時、ユダヤ教の教えとその規則を熱心に守っていた人たちでした。それ自体はいいのですが、問題は、彼らが自分たちのことを他の人達と比べて正しいことをしている、と考えていたことでした。そして、その規則を守ることのできない人たちの気持ちを軽視し、ユダヤ社会から排除しようとすることでした。
イエスは、このようなファリサイ派たちの考え方は間違っていると考えました。このたとえに出てくる最初から上座に座ろうとしている人とは、ファリサイ派のことだと言えます。一方、ファリサイ派のようなエリートによって断罪され、ユダヤ社会から排除されていた人たちは、そもそも自分は天国に行けないのではないか、そもそも席がないのではないか、と思っていました。
しかしながら、このたとえにおいて、神様は、そのように思っている人たちに向かってこう言うのです。
「友よ、もっと上席にお進みください。」
自分などだめな存在だ、神様に愛されているはずがない、と思うような人たちにむかって、宴会の主催者、すなわち神様は呼びかけます。「友よ」。神様は、あなたこそ友なのだ、あなたこそ私のそばに来てほしいのだと、言われているわけです。
今、この世界の中で排除されている人たち、自分などだめな存在だと思っている人たちに対して神様は「友よ、もっとも上席に」と招いていること、これこそが、イエスの語る神の国、天国のイメージです。
この例えには、宴会に招かれたときだけでなく、自分で宴会を開くときのことが出てきます。そのポイントは、人を宴会に招くときには、相手にお返しを期待しない、見返りを求めない、というところにあります。
私たちがパーティーなどを行うとき、何らかの意味で利害関係者を招くのが普通だと思います。この人を招いて、あの人を招かなければおかしい、とか、この人を呼ばないと、後で困ったことになるかもしれない、といった具合です。そして、こうしたことは、パーティーなどに限ったことではありません。私たちが人に何かをする時、相手のためと思いながら、実際には、何らかの自分へのメリット、見返りを期待しているということが、多かれ少なかれあると思います。この人にお願いされたことをやっておけば、後で自分が得することがあるのではないか、この人に親切にしておけば、後でみんなから尊敬されるのではないか、といった具合です。相手のためと言いながら、実はお返しを求めている、つまり実は自分のためにしている、ということは、よくあることだと思います。
しかしながら、天国、あるいは神の支配とは、それとは全く異なる原理である、ということです。
たとえの中で、婚宴に招くべき人としてリストに出てくる人たちとは、貧しい人たちなどでした。その人たちは、当時の社会においては、社会の期待に答えられない、すなわち、お返しができない人たち、と考えられていました。そして、イエスは、そのようにお返しができないからこそ、婚宴に招かれるべきなのだ、と言われます。それはどういうことかというと、神の国、天国は、何もお返しができない人、何も持っていない人、あるいは、神様の期待に応えることなどとてもできないと思っているような人こそ招かれているのだ、ということです。
これらのたとえが示していることは、神様は私たちに見返りを求めていない、ということです。私たちは、神様に対して何かを差し出す必要はない、ということです。私たちは、そもそも一人一人大切な存在として、神様によって創造されました。であるから、神さまは、私たちが何かを差し出すことによって、あるいは私たちの能力によって、その人の存在価値を判断する、というようなことはないわけです。そもそも神様にとって、私たちの価値とは、私たちの存在そのもので十分です
私たちは、この社会の判断基準、あるいは、自分が持っているたくさんのものから離れ、神様の前に、何も持たないありのままの自分で、神様に立ち帰りたいと思います。 (チャプレン相原太郎)