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大学礼拝「 求めて、与えられて、手放して」2024/5/29

カテゴリー:大学礼拝

【サムエル記上 1章21~28節 】
1:21 さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、
1:22 ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
1:23 夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。
1:24 乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、
1:25 人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。
1:26 ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。
1:27 わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。
1:28 わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。

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はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」 今回も、僕、ワンオペです(泣) 後藤チャプレンは、いま東京におられます。東京で行われている日本聖公会の全国総会という、大事な大事な総会に出席されているのですね。なので、ぜひ皆さん、そのことも覚えながら今日の礼拝をお過ごしいただければと思います。

不妊の物語
 さて、今日の聖書のお話ですけれども、先ほど読んでいただいた聖書の箇所には、「ハンナ」という一人の女性の物語が描かれていました。ハンナには、エルカナという名前の夫がいたのですが、彼女は、その夫との間に、大きな問題を抱えていました。それは、いわゆる「不妊(不妊症)」という問題です。彼女たち夫婦は、子どもが欲しいと望みながらも、それがなかなか叶わずに、悩んでいたというのですね。

「妊娠」とか「出産」、あるいは今回のテーマの一つである「不妊(子どもができない)」という問題に関しては、いつの時代においても、特に、女性にとって大きな問題であると言えます。ただし、少なくとも僕らの時代にあっては、女性だけが考えることではなくて、男性も(……いや、男性こそが!と僕の立場からは言わせていただこうと思うのですが)、しっかりと“自分事として”責任をもって向き合うべき事柄である、というのは、もはや常識になってきているのですよね。日本の性教育というのは、先進国の中でもかなり遅れていると言われている中にあって、女性ももちろんそうですけれども、特に男性が、これから先、きちんと「性」に関する様々な事柄に関して、主体的に学んでいくことが必要である――というのは、あえて、“このように女性が多い環境”だからこそ、強調させていただこうと思うのですね。

ただしその一方で、男性の側には限界があります。男性が、たとえば、妊娠や出産という問題に関して“当事者意識”を持つのには、超えられない現実的な壁が存在すると言わなくてはなりません。何故なら、やはり、実際にお腹に赤ちゃんを宿して、その子を産むのは、ママにしかできないことだからなのですね。

今日は、旧約聖書に登場する「ハンナ」という一人の女性をめぐるお話を読んでいますけれども、「子どもが欲しいけれども、子どもができない」と悩んでいる、この時の彼女の心情というものを、たとえば僕のように、“男性”という立場からどれだけ頑張って読み解こうとしたとしても、残念ながら、そこには限界がある……。本当の意味で彼女の気持ちに寄り添うことはできないだろうと思うのですね。

そういう、いわば“制限のある立場”だということをしっかりと心に留めながら、しかし、それでも語るべきことは語らなければならないという意識を持って、このあとのお話を進めていきたいと思います。

もう一人の妻の存在
 さて、この物語の主人公であるハンナは、このとき、子どもができないという問題に苦しんでいました。しかし、実は彼女にはもう一つ、悩みの種があったのですね。それは、夫であるエルカナが連れ添っている、もう一人の妻の存在だった。「自分の夫にもう一人、妻がいる!?えっ!不倫!?昼ドラやん!」 確かに、昼ドラっぽいのですけれども、この場合は、「不倫」じゃなくて、いわゆる「一夫多妻制」によるものなのですね。一人の男性に、複数人の妻がいても、ちゃんとそれで家庭の中が平和であれば、別に問題ない――ということが、かつて、旧約聖書の時代にはあったのですね。分かる人には分かると思いますけど、『鬼滅』の「天元さま」みたいな感じです。天元さまは、ね、まぁ3人の妻がいても、みんな仲良く暮らしてるみたいですけれども、このハンナの場合は違ったのです。彼女の夫には、自分を含めて2人、妻がいたわけですが、もう一人の妻の存在が、さらに彼女を悩ます原因になっていたのです。なんと、もう一人の妻のほうには、(少なくともこの時点で)「4人以上の子ども」がいたのですね。

自分には子どもがいないのに、かたや、もう一人の妻は“子沢山”。今日のところの少し前、1章の6節を読んでみますと、もう一人の妻は、ハンナのことを悩ませていた、というように書かれています。ただ、これに関しては、実は翻訳が非常に難しいので、実際に、そのもう一人の妻が直接、ハンナに対してマウントを取ったり、嫌がらせをしたりしていたのか、それとも、もう一人の妻には何も問題はないけれども、たくさんの子どもがいる彼女の“存在”そのものが、ハンナを悩ませていただけなのか……ということは、はっきりしないのですね。それでもやはり、ハンナ自身が、自分ともう一人の妻とを比べてしまっていたのは間違いないことですし、それゆえに彼女は、「子どもができない」ということだけでなく、「どうしてあの女には子どもがいるのに、私には子どもがいないのか」というように、もう一人の妻に対する嫉妬や憎しみ、怒りという感情にも苦しめられていた、というわけなのですね。

自暴自棄になるハンナ
 そういった様々な感情によって心を蝕まれていく中で、彼女は次第に、自暴自棄になっていきます。彼女は、ある日、お祈りをするために神の神殿を訪れます。11節のところに書かれていることなのですが、そこで彼女は、激しく泣きながらお祈りをささげます。そしてその際に、彼女はこんなことを口にしたのですね。「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげ(します)」(1:11)。

「その子を主に(神に)おささげします」というのは、簡単に言えば、神殿で働く小坊主(下働き)として、子ども神殿にお譲りします、ということです。日本でも昔は、仏教のお寺に子どもを委ねて、そこで、お坊さんの弟子として育ててもらうという制度がありました。一休さんとか、まさにそんな感じなんですよね。経済的な事情とかで、親元で生活するよりも、お寺で育ててもらうほうが子どものためになる……という考えが、かつてあったわけです。

でも、ハンナの場合は、それとは事情が違っていました。この時の彼女の言葉を言い換えるならば、こうなります。「生まれた子どもは神さまに差し上げますから、とにかく私に子どもを産ませてください!」 これは、非常に危険な考え方ですね。彼女は一貫して、「子どもを産みたい」という願いこそ持ち続けてはいたものの、しかし、その思いは徐々に、「自分の子どもの将来を期待する」というものではなくなりつつあった。それどころか、「とにかく早く子どもを出産して、もう一人の妻や周りの人たちを見返してやりたい」という、歪んだ願望へと変わってしまっていた……。

そのように読むことができるわけです。ただし、それほどまでに彼女は苦しみ、追い詰められていたのだということは、きちんと理解しておかなければならないだろうと思います。

ハンナの心境の変化
 さて、そのような願いが届いたのかどうかは分かりませんけれども、彼女はそれからしばらくして、念願だった赤ちゃんを無事出産することになります。それが、今日の場面(21~28節)ということになります。

この箇所を注意深く読んでみますと、ある意外な事実に気付かされるのですね。それは、彼女の語っている22節の言葉です。「ハンナは行こうとせず、夫に言った。『“この子が乳離れしてから”、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。』」

ハンナは、これまでずっと、自暴自棄になっていました。妊娠する前は、「とにかく早く子どもを妊娠して出産して、あらゆる呪縛から解放されたい」という、そのようなことばかりを思い続けながら過ごしていたのですよね。「子どもは神さまに差し上げますから、とにかく私に子どもを産ませてください!」という祈りの言葉が、その彼女の苦しみというものを如実に伝えてくれています。

ですが……、そんな彼女の心は、実際に赤ちゃんを妊娠したことが分かって、少しずつお腹が大きくなって、無事出産を果たし、そしておっぱいをあげるようになる、その間に(およそ280日の間に)、随分と変化したみたいなのですね。彼女は、いざ約束通り、神さまに子どもをおささげしようかという時を迎えて、それをためらうのです。「せめて、この子が乳離れしてから……」と言って、手放すのを拒否したのですね。

さぁ、ハンナの赤ちゃんがおっぱいを飲まなくなったのは、何歳くらいでしょうか。他の聖書の箇所を確認してみましたところ、古代イスラエルにおける授乳の期間というのは、どうやら「三年」くらいだったようです(Ⅱマカ7:27)。それが我々の感覚で“長い”と感じるかどうかはともかくとして、ハンナはおよそ3年の間、その子と一緒に生活したということになります。言い換えれば、ハンナは“3年間も神を待たせた!”ということになるわけですね。でも、この物語は、それを悪いようには描いていません。むしろ、それで良かったのだと表現しているようにすら読めるわけですね。

おわりに
 その後、ハンナは当初の約束のとおり、神殿の子として、最愛の子どもを神に委ねる決断をします。3歳という年齢で、子どもを親元から離しても良いのかどうか――という議論については、まぁ、また別の機会に譲ろうと思いますけれども、このハンナの物語の中で、最も注目すべきなのは、このように、「求め、与えられ、そして“手放していく”」という、僕ら人間にとって極めて難しい決断に関して、「母親」という視点から描いているという点だと思うのですね。求めて、求めて、ようやく与えられた“最高の宝物”を、思い切って“手放す”……。ややもすれば、自分にとって大切なものへの愛というのは、「支配欲」や「執着心」という悪い思いへと変わっていきます。それを、彼女は乗り越えた。克服した。子どもにとって、より幸せな道へと進ませてあげたい、という思いがきっと、彼女を本当の意味で、様々なしがらみから“解放”させるきっかけになったのだろうと思います。結局、彼女はこのあと、続きの物語を読んでみると、2人の娘と3人の息子を授かることになるのですよね(2:21)。物語がそのような展開を迎えるというところからも、このときの彼女の、「求め、与えられ、そして“手放していく”」という決断が、良い決断だったと評価されている、と言えるのではないでしょうか。

手を握るよりも、手を放す(手を開く)ほうが難しい――。でも、手を放したその先に、新しい希望が待っている。そんなことを、今日、この「ハンナ」という一人の女性を巡る物語から、ご一緒に学ぶことができたように思います。

……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。  (チャプレン柳川真太朗)

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