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大学礼拝 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」~自分を知り、向上させるための礼拝 2024/6/5

カテゴリー:大学礼拝

【ヨハネによる福音書 14:5-9】

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

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かつて柳城で行われた「黙想と祈りの集い」の翌年の2018年、同じ形式の「黙想と祈りの集い」が私の主催で始まり、それが今も続いています。その「集い」では、「イエス・キリストの言葉を人生の道しるべにして、自分を向上させるのに役立てる」という目標が重視されています。

その根拠が今日の福音書に記されている「わたしを見た者は、父を見たのだ。」というイエスの言葉にあります。「イエスを知れば神が分かる」という意味のこの言葉は、イエスこそが唯一無二の教師であることを表しています。そんな最強の教師に従えば間違いないという安心感が大切であるとともに、「一生向上を続けたい」という意欲が重要になります。それは神を信じない人にとっても言えることです。

学校とは人格的成長の場であって、柳城はこのイエスをその柱にしてきました。創設者のマーガレット・ヤングはキリスト教の宣教師であったことを決して忘れてはなりません。だから、「礼拝って強制ですか? 何回出ればいいの?」と学生さんに聞かれたとしても「柳城だから、できる限り礼拝に出るのが当たりまえじゃん」としか答えようがないし、こんな質問をしているうちは大学生としてはマダマダで、こんな質問にまともに答えようとするのも柳城としてはサミシイ限りでしょう。

イエスのことを直接記している4つの福音書は分厚い聖書全体からすれば僅かなページ数にしかなりません。柳城に在籍するうちに一度は通読して欲しいと願います。その際には、かつてキリスト教センターで主催されていた「バイブルタイム」「お昼のさんびかタイム」「朝の祈り」なども役に立つことでしょう。復活を望みます。

最後に、お祈りをして終わりにします。

私のような罪深く愚かな者までも、ここに立たせてくださる主よ、あなたの、その愛の深さにこころから感謝します、賛美します。どうか、私の浅はかな考えや言葉はすっかり忘れ去られ、イエス・キリストの今日の言葉「私を見た者は、父を見たのだ」だけが、ここに集う人々の心に残りますように。そして、イエスこそが人生の唯一無二の教師であることをこの言葉を通して、柳城に集う私たちすべてが理解して、イエスの生き方から多くを学び、一生かけて自分を探し求め、向上していけるように、主よ、どうか私たちに知恵と勇気を与えて、その恵みによってさらに、柳城が大切にしてきた「愛をもって仕える心」が柳城キャンパスや保育現場、そして社会全体に広がるよう、主よ、あなたがお望みならば、どうか私たちをそのための道具として用いてください。
この祈り、イエス・キリストのみ名によって。
アーメン

(総務課 加藤)

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