大学礼拝「魚は頭から腐るって言うけど・・・」2024/6/12
【エズラ記9章1~6節】
9:1 このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、
9:2 彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」
9:3 わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。
9:4 また、この捕囚の民の悪事に対するイスラエルの神の裁きの言葉を恐れる者は皆、わたしのもとに集まって来たが、夕べの献げ物のときまで、わたしはぼう然として座り続けた。
9:5 夕べの献げ物のときになって、かがめていた身を起こし、裂けた衣とマントをつけたままひざまずき、わが神、主に向かって手を広げ、
9:6 祈り始めた。
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はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
さて、今回はこういうタイトルでお話させていただこうと思います。『魚は頭から腐るって言うけど……』。
皆さん、この「魚は頭から腐る」ということわざはご存知でしょうか。インターネットの辞書で、このことわざの意味を調べてみましたところ、(どんなことが書かれていたのかと言いますと)「魚は頭から腐り、悪臭を発する。社会の腐敗が上層部や上流社会から進行することのたとえ。古代ギリシア時代からの表現で、ヨーロッパなどで広く使われてきました」というようなことが書かれていました(『コトバンク』より)。
社会とか、あるいは組織といった、いわば“人間の集まり”というのは、大抵の場合、上の立場の人間がしっかりしてないと、その悪い体質はどんどん下へ下へと広がっていくぞ、ということなのですね。上の立場の人間、つまり、社会や組織の責任を担っているような人たちが、たとえば、道理に反するようなことを行なっていたりとか、あるいは、厳密には「ルールを破っている」とは言えないけれども、しかし、「普通に考えてそれはズルいよね」と言われてもしょうがないようなことをやっていたりすれば、自然と、そういうような雰囲気は、下で働いている人たちにも広がっていって、やがて全体が堕落していくことになるのだよ――ということを教えてくれている言葉であるわけですね。
魚は“頭”から腐る、は本当か?
実は、この「魚は頭から腐る」ということわざなんですけれども、実際には、正しくない(間違っている)そうなんですよね。今日のこのお話を準備しているときに、ふと、「魚って、ホンマに“頭”から順番に腐っていくのかな?」っていう疑問を抱いたのです。なので、試しに調べてみました。すると(一応あくまでネットの情報であるということはお断りしておこうと思うのですけれども)、なんと正確には、「魚は、頭から腐っていくわけではない」という、衝撃的なことが書かれていたのですね。
魚釣りとかが趣味の人にとっては、多分、常識なのだろうと思うのですが、実は魚というのは、「頭」からではなく、「エラ」とか「内臓」から腐っていくそうなのです。まぁ、「内臓」が腐りやすいというのはね、さすがの僕でも知っていましたけれども、まさか、「エラ」の部分が腐りやすいというのは知らなかったですね。エラの部分には、大量の微生物が付いているので、そのせいで他の部分よりも腐敗しやすい、ということなのですね。僕が読んだページでは、そのように解説されていました。なので、逆に言えば、(たとえば魚釣りとかで持って帰ってきた)新鮮な魚を、なるべく長持ちさせたければ、まず、「エラ」と「内臓」を取り除けば良い……ということらしいのですね。
昔の人の“生活の知恵”
でも、それじゃどうして、昔の人たちは、「魚は“頭”から腐る」と考えたのか――。その理由は、残念ながら分かりませんでした。まぁ、昔の人たちは「微生物」の存在とか知らなかったはずですので、おそらくは、「(エラの部分も含めて)頭を落としていれば、魚は長持ちする」っていう、一種の“生活の知恵”というものが、代々、親から子へ、子から孫へという感じで伝えられていたのではないかなと、僕は想像しています。
また、それと同時に、この「魚は頭から腐る」という“ことわざ”自体に関してですね。このような“ことわざ”が、大昔から、世界のあらゆる国や地域で使われていた、というところからも、昔の人たちの、いわゆる“知恵の豊かさ”というものを感じるわけです。いま、テレビやインターネットで流れているニュースを見ているとですね、まさに、そのニュースのほとんどが、この“ことわざ”のとおりの内容だなと思わされるのですよね。
人の上に立つ……責任ある立場の人たちが悪いことをしていたら、その腐敗は下へ下へと広がっていく――というような状況を、僕らのような一般市民は、常にニュース番組などを通じてまざまざと見せつけられているわけですけれども、実は、そのような人間の罪深い歴史というのは、今に始まったわけではなくて、大昔からずっと変わらず続けられてきてしまったのだということを、皮肉にも、この“ことわざ”の存在が物語ってくれているのではないかと思うわけです。
多民族との結婚
さて、ここで聖書のお話に移っていきたいと思います。今回の聖書のテクスト、旧約聖書のエズラ記9章という箇所に関してですけれども、この箇所には、こんな内容が書かれていました。「異民族との結婚」。他の民族・部族に属する人と結婚することの是非について語られていたわけなのですね。
あらためて、エズラ記9章の1節から2節までのところを読んでみたいと思います。「このような事があって後(のち)、長(ちょう)たちがわたしのもとに来て、言った。『イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。』」……こんなふうに書かれていました。
この場面に登場しているのは、「イスラエル」という民族。旧約聖書の中で、「自分たちは、神に選ばれた特別な民族だ」という自覚・自負を持っていた人々として取り上げられています。彼らはこのとき、この「異民族との結婚」という大きな問題に直面していました。彼ら、イスラエルの人々の間には、その当時、「ほかの民族に属している人と結婚してはならない」という、そういう決まり事があったらしいのですね。イスラエル人はイスラエルの中だけで結婚相手を探して夫婦になりなさい」というルールが定められていたわけです。
しかしながら、この箇所が伝えているところによりますと、なんと、イスラエルの多くの人たちが、そのルールに違反している(すなわち、たくさんの人たちが、イスラエル以外の民族から結婚相手を探し出して夫婦になって、更には、人によっては子どもまで授かっている)という事実が明らかになった――ということなのですね。そのような「異民族との結婚」という問題が、このとき、イスラエルの中では広がっていたわけです。
婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する
まぁ何と言うか……、今のね、我々のような現代人にとっては、あんまり良い印象を受けない箇所だと思います。他の民族の人たち、つまり、自分たちとは違うグループの人たちに対する、“偏見”というか、“差別的な意識”というものが、この箇所からは感じ取れるからですね。
それに、これは決して、“聖書の時代”に限った話ではなくて、今の時代……この2024年という時代においても、依然として、そういう風潮は世界各地に根強く残っているのですよね。「他の民族の人と結婚してはならない」、「家族や親族から反対される」、「白人と黒人は結婚しない」、「自分と同じカーストの人としか結婚できない」、「特定の国にルーツがある人とは結婚すべきではない」みたいな感じで……。外国だけでなく、この日本においても、未だに、そういう意識がくすぶり続けているように感じます。教会でもですね、「クリスチャンはクリスチャンと結婚するべきだ」みたいなことを言うキリスト教の人もいますし、あるいは、今月は『プライド月間』という期間を迎えているわけですけれども、「結婚というのは、男と女がするものであって、男同士、女同士が結婚するなんてありえない!」と思ってしまっている、そういう“時代遅れ”な考えも、まだまだ、この世の中にはしぶとく残り続けているわけですよね。
結婚というのは、憲法にもあるように、「両性の合意のみに基づいて成立」するもの(まわりの人たちがとやかく言って阻止できるものではなくて、当事者である二人の合意だけで成立するもの)である――。そのことを、現代を生きる僕らは、しっかりと心得ておかなければならないと思いますし、そうであるがゆえに、今日のこの聖書の箇所に書かれている内容というのは、やはり、僕らとしては、あくまで“古代”のお話なのだと、そう割り切って読む必要があるのだろうと思わされるわけです。
お偉い人たちが真っ先にルールを破る
ただし、この聖書のお話というのは、実は、そういった“結婚に関する閉鎖的なルール”に関してだけ語られているわけではない――、ということに注意しなければならないのですね。先ほど読んだ、9章2節の最後の部分には、こんなことが書かれていました。「しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」
長たる者、官職にある者……。つまり、簡単に言えば、イスラエルの中の“お偉い人たち”のことですね。日本で言えば、総理大臣とか、なんとか大臣、県知事、市長、そういうような庶民の代表であるような人々たちのことを指しているのだと思いますけれども、そんな“お偉い立場の人たち”が真っ先に、ルールを破って、他の民族の人たちと結婚したりしていた(!)、ということが明らかになったわけです。
何度も言いますように、「結婚に関して、何らかの制限を課す」というのは、今の時代的にはナンセンスなことですね。そういう制限は取り除いていかないといけない。ただ、この箇所に書かれていることというのは、それだけを僕らに考えさせてくれているわけじゃないのですね。それとは別の問題、すなわち、「一般庶民には(下々の人間には)『ルールを守れ』と要求するくせに、自分たち上流階級の人たちは、当たり前のようにそのルールを破ってやがる!」という、非常に“胸糞悪い”事実が、ここでは何者かによって告発されているわけなのですね。……これはまさに、今日のテーマである「魚は頭から腐る」ということわざに、ピッタリの聖書の箇所であると言えるのではないでしょうか。
おわりに
最後になりますけれども、このことわざに関して、もう一つだけ気になったことをお話して終わりたいと思います。「魚は頭から腐る」というこのことわざは、“上”の立場の人間が悪いことをすれば、その悪い習慣というのは“下へ下へ”と広がっていく……という意味であると、先ほどお話ししましたよね。でも、ちょっと考えてみてほしいのです。「魚の“上”って……、“頭”なのか?」(魚の“上”って、頭ではなく、正確には“背びれ”とかじゃないのか?)と、僕は思ってしまったのですが、今さんはどう思われるでしょうか。でも、このことわざの意味に関しては、大抵の場合、「“上”の人たちの悪い行いが、“下”の人たちへと広がっていく」というように説明されるのですよね。
これはもしかすると、我々の社会の中にある、“上下関係”というものが影響しているのかもしれません。魚は、人間とは違って、“頭”が“前”にある。まぁ、他の生き物もほとんどそうなのですけれども、かたや、人間はというと、“頭”が“上”にあるから、無意識のうちに僕らは、いわゆる“お偉い方々”というのは自分たちよりも“上”にいる、つまり“上下関係”で考えてしまいがちなのではないかと思うわけです。けれども実は、本当に様々な責任を担いながら、一生懸命、世のため人のためにリーダーとして働いている人たちというのは、人々の“上”ではなくて、誰よりも“前”にいるものなのではないでしょうか。
まぁ、そんな立派な人というのは、残念ながら、今のこの世の中には、ほとんどいないような気がしますけれども、それでも、これからの時代、誰かの“上”に立とうとするのではなく、誰よりも“前”に立ってリーダーシップを発揮してくれる、そういう立派な人たちが社会の中に増えていってほしいなと思いますし、それと同時に、他の誰かではなく、僕ら自身が、なにか責任のある役目を担うことになった時には、人の“上”ではなく、誰よりも“前”に立って、自分たちの為すべき務めを果たしていける……そんな一人ひとりになっていくことを皆で一緒に目指していければと願っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。(チャプレン柳川真太朗)