大学礼拝 2016/1/13
【ガラテヤの信徒への手紙5:13-14】 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
33年間、名古屋柳城短期大学にお世話になりました。今ここに立ち、これまでの思いが胸に迫ります。最後までしっかりとお話ができるように、どうかお祈りください。
90歳を超えた私の母が、一昨年の年末に骨折をした後、歩行ができなくなり、それ以来1年余り、私は母の介護に多くの時間を費やすことになりました。皆さんからは「たいへんでしょ?」とよく声を掛けられます。大変と言えば大変ですが、実は、毎日、楽しく母と過ごしているのです。それ以前と言えば、母と私との関係は淡々としたものでしたので、これは大きな変化でした。母と向き合うことで、これまで分からなかった母の一面(明るさやユーモアセンス)や、まだ聞いていなかった体験などを知る喜びがあります。
子育ての経験のない私にとって、今の母はまさに「大きな子ども」です。「ありがとう」とか「よく出来たね」、「気持ちがいい」といった素直な言葉が頻繁に交わされます。「あなたは賢いわね」…。今まで一度も言われたこともない言葉を母からもらいました。私の方が母に支えられているようです。
母は働く女性でした。20代で戦時を体験し、戦後すぐに結婚して私を含めた3人の子どもをもうけましたが、私が10歳の時に父が亡くなり、弟は5歳でしたので、相当に苦労して私たちを育ててくれたのだと思います。でも、そんな素振りは見せなかったように思います。今は母への恩返しの時期だと思っています。
17年前に出版された、レオ・バスカーリア作の『葉っぱのフレディー』を皆さんもよくご存じかと思います。死ぬのを怖がっていたフレディーが、親友のダニエルに教えらながら、「死とは変化の一つに過ぎない」ことや「いのちは永遠である」ことを理解していく物語でしたね。私は母の介護を通して、「いのちは確かに続くもの、神の御手の中にあるものである」ことを実感しています。母には人生の最終章を満ち足りたものにして欲しいと思っています。
最後に、絵本作家のレギーネ・シントラーの言葉をもって、お話を終わりたいと思います。
「人生は死によって限界づけられているにもかかわらず、それ故に楽しいものであり、充実して価値があり、最後まで生きるに値するのです。死は、生の暗い部分を強調することによって軽くなるのではありません。死を軽くするのは、十分に生きたという感情であり、この世のあらゆる美しさを知り尽くしたという感情なのです。」
長い間、ありがとうございました。(尾上)
(尾上明子特任教授が今年度もって本学を退職されます。本日の礼拝では、先生に教話をお願いしましたので、ここに、その概要をお知らせしました。)