大学礼拝 2016/9/28
【ルカによる福音書 14:12-14】
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
今日は人の平等について考えます。
先ほど読まれた聖書には「宴会をする時は、親しい者ではなく、むしろ不自由な人を呼びなさい」と記されています。普通では考えられない教えです。もちろん当時にあっては、障がいを持った人々は「招かれざる客」であったわけですから、余計に現実離れしています。
現代にあっては、先日のリオのパラリンピックで見られたように、障がいを持った人々が差別されるような時代ではありません。公平さを保つために、障がいの程度の応じて同じ競技種目が複数に分類されているくらいです。「どこかに障がいがあるから全部だめ」ではなく、「機能している他の面を最大限に活かす」という発想です。パラリンピックは、差別観がなくなったことを実証しているのです。
一方、健常者の間でも平等の意識が高まりつつあります。たとえば、年齢別スポーツ大会。100メートル走の世界記録保持者は90歳を超えた日本人だそうです。
スポーツを通して自分の能力を発揮できる人の話が続きましたが、では、スポーツのできない人はダメなのか。日常生活すら自分で営めない方々はどうなのか。どこまで人は平等と言えるのか。もっともっと考えるべき問題です。
たとえば、いくら健常者でも、その一生の中で人の世話にならないと生きていけない時期が必ずあります。赤ん坊の時期と介護を必要とする時期です。赤ん坊は泣くこと以外で文句を言わないですが、高齢者は好き嫌いが激しくて扱いが難しくなります。高齢者介護の職場では、もちろん使命感が必要でしょうが、あまりに高すぎると、長続きしません。
人の世話になるのが嫌で自殺する人もいるそうですが、人が人の世話になることは当たり前のことと自覚したいものです。その感覚が平等の精神を育むのです。(チャプレン)
ニチニチソウ