大学礼拝 2017/5/17 「『道』を探して」
【ヨハネによる福音書14章1-6節】
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
わたしたちは「道」という言葉をよく使います。「道路」という意味で使う場合は舗装道路、悪路、でこぼこ道、平らな道、坂道、上り道、曲りくねった道などと道の状態を表す言葉として使います。また、地下鉄の御器所から柳城への道、富士山の頂上への道といったように、どこどこへの道として、目的地を示す場合にも道という言葉を使います。そのほかには、道そのものが、あるものごとの本質を表す場合にも使います。武道(柔道、剣道など)、芸道(茶道、華道、書道、歌舞伎、能楽)などのように、武術、芸術の技能、技術を体系化したもの(剣の道、茶の道など)によく使われます。極道という言葉はヤグザ社会に使われる言葉になっています(極道の妻など~ゴクツマ)が、本来は道を極めることが道理を極めること、すなわち極道ですから、これはすごいことなのです。
さて、イエス様は「わたしは道である」と言われました。道そのものがイエス様なのです。わたしたちはたとえ御器所から柳城への道を尋ねて教えてもらったとしても、初めて来る時には多分すんなりとは来られなかったのではないでしょうか。行く場所を聞いていても、その場所の近くにいたとしても分からなかったこと、迷ってしまったという経験はありませんか。そんなわたしたちにとってイエス様はわたしたちといつも一緒にいてくださるナビゲーターなのです。それが「わたしは道である」と言われた意味なのです。このイエス様という道、ナビゲーターは生きている道、わたしたちと一緒にいて、一緒に歩いていってくださる道、動く道です。現代ではエスカレーターがあり、動く道もありますが、途中までしか連れて行ってくれません。しかし、わたしたちがイエス様という生きた道を信じ、一緒に進んでいけば、その道は安心して進んでいくことができます。
皆さんは山登りやハイキングをしたことがありますか。わたしは大学時代と、牧師になってからの合わせて14年間、長野県の松本に住んでいましたので、よく山登りをしました。一人で登った時など、登山道の道標(道路標識)がとても頼りになりました。道標がはっきりしていない分岐点、壊れているところではどちらへ行けばいいか、とても不安でした。もし間違って、道に迷ったりしたなら遭難事故にならないとも限らないからです。
わたしたちはこれからの人生において生きた道を探していきたいものです。その道は真理でもあり、命でもあるとイエス様は言われました。イエス様ご自身が真理であり、命であるということは、イエス様の人格そのものが真理であること、どこかに真理があると言われたのではなく、イエス様の生きざまそのものが、真理であると言われたのです。そして「わたしは命である」とも言われたイエス様は、「イエス様こそ私の命」、「君こそわが命」として受け入れるとき、わたしたちのうちに生き、見守り、励まし、支えてくださるのです。(チャプレン大西 修 主教)
●今日は久しぶりにチャペルでの礼拝でした。
サーバー初挑戦の学生さんが緊張しながらも頑張ってくれました。また聖歌隊が聖歌練習の音頭を取ったり、2階席で礼拝中の聖歌を支えたりしてくれました。感謝です。また、礼拝直前、「お昼の賛美歌タイム」の面々が楽しそうに賛美歌を歌っていました(記事はこちら)。