大学礼拝 2017/6/28 『対人関係で悩んでいるあなたへ』
【創世記11:1~8】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
現代のように複雑で多岐にわたる対人関係の中で生きていくことは、だれにとっても大変なことです。多くの人々が対人関係で悩み、心を痛め、時には傷つきながら日々を過ごしていると言っても過言ではありません。
ある人は親しい友人がほしくても、なかなかできないと言い、またある人は、人を愛することができず、人から愛されないと言って悲しみ、さらに、人は自分の考えをなかなか理解してくれないと言って嘆きます。
これらの悩みを一つ一つ数え上げたら限りがありません。「対人関係で悩むことは、生きている証拠だから・・・」と言ってみても、問題の解決にはなりません。
ところでわたしたちが悩むのは、一体どんな時でしょうか。それは自分の考えが、なかなか思い通りに他者に伝わらない場合が多いようです。人間は元来とても自己中心的です。自分中心に物事を考えることに慣れていますから、思った通りに事が進まないと面白くありません。自分の考えを通すことに急なため、他者の意見を十分に聞くことをせず、他者の気持ちを損なっていることにも気付かず、対人関係をダメにしてしまっている場合がよくあります。
旧約聖書の一番初めの創世記(2~3章)には、有名な「アダムとエバ」の物語が記されています。神が「とって食べてはいけない」と二人に命じられたエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を、蛇にそそのかされたエバが取って食べ、アダムもエバから渡されたその実を食べてしまいました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」と神から問われたアダムは「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答え、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。
アダムとエバの信頼関係は、神からの叱責を逃れ、自分の立場を守るために自己弁護し、他者に責任転嫁することによって、失われてしまいました。「だれだれさんがやれと言ったのでやったら、こんな結果になってしまったんだ」と言って悔やんだことはありませんか。責任転嫁とは自己弁護し、自分では責任を負わず、その責任を他者になすりつけることです。これまではうまくいっていた対人関係が、何となく気まずく、おかしくなったと思われるとき、その原因を探ってみると、案外、自分の中に隠れている責任転嫁という代物が原因であることが多いようです。
わたしたちが自分の立場を頑なに守ろうとしたり、弁護したりせず、他者の前で自分のありのままの姿を見せることは、とても勇気のいることです。なぜなら、それは自分を曝け出し、相手に自分を開放してしまうことになるからです。けれどもそれができたとき、これまでとは全く違った新しい生き方が生まれてきます。自分の殻を打ち破ることによって、自分の中に新しいものを取り入れることができるのです。
今、東京上野の東京都美術館で開催されている16世紀オランダ(ネーデルランド)の画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が人気を博しています。言うまでもなく、この絵の基になっているのは、創世記11章の「バベルの塔」の物語です。
一つの言語によって生きていた人間は、高慢にもその知恵によって、神のおられる天にまで達する塔を建てようと企てました。これは神によって創造された人間が、自ら神の地位に就こうとする計画に他なりませんでした。神はこの計画を止めさせるため、その塔を破壊し、人間の意志伝達手段である言葉を通じなくされました。「バベル」とは混乱という意味です。わたしたちが対人関係で悩むのは、相手との意志の疎通を欠くことによります。
素晴らしく立派で高い塔を建てる時、上の方で働く人は下の方で働く人の思いを忘れがちです。同様に下で働く人も上で働く人の思いはよくわかりません。そんな時、相手の立場や気持ちを考えると見方が変わってきます。相手の立場に立つ、身を置くことによって、思いやりや優しさが生まれてきます。下で働く人は、上で働く人の大変さに思いを寄せ、上で働く人は、同じように下で働く人の大変さに思いを寄せる時、お互いが理解し合えるようになるのです。
あなたが対人関係で思い悩んでいる時、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12~13)と言われ、その言葉通り、十字架への道を歩んで行かれ、十字架の上でわたしたちのために死んでくださったイエス様に目を向けてください。イエス様を見つめることによって、きっとあなたの悩みを取り去ってくださる希望の光が差し込んでくることでしょう。(チャプレン 大西 修 主教)
カシワバアジサイ