マルコ通読⑰ 9:14-9:29(2018/6/13)
今日はマルコ通読十七回が行われました。
今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が、走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
高い山に登られたイエスを待つ群衆には様々な人間がいました。汚れた霊をもつ子どもの父親もイエスを待ち望む人間の一人でした。
山腹に残された弟子たちには、この子どもの悪魔払いができません。それに目をつけた律法学者らは彼らに難癖をつけていたことでしょう。しかしイエスが急にお帰りになられたので、皆は大変驚きます。
弟子たちの不甲斐なさを見たためでしょうか。この父親は「できれば…」という言い回しでイエスに霊を出してくれるよう頼むのでした。ここに人間の不信仰を見ることが出来ます。
イエスは信仰の乏しいその言葉を決して見逃しはしませんでした。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
このイエスの言葉に我にかえった父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。この父親の叫びは真の心から湧き出た祈りです。
人は時として不信仰な存在であることをこの父親と同じように、隠しとおすことが出来ない場面に遭遇します。しかし、イエスはそんな人間の浅ましい心を知ったうえで、父親の悔い改めと子どもへの思いに愛をもって応えられ、悪魔をお叱りになられました。
私たちはイエスの限りない愛を、福音書をとおし学ぶことが出来ます。
「信じる者には、何でも出来る。」
このイエスの御言葉を忘れることなく、私は一歩一歩学んでいきたいと思います。
カフェ棟の花壇