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マルコ通読26(マルコによる福音書11:27-12:12)2018/10/19

カテゴリー:活動記録

今日はマルコ通読二十六回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 (マルコによる福音書12:1〜11)

エルサレム入城後、神殿を歩いておられたイエスに、権力者である祭司長、律法学者、長老たちは「権威についての問答」を仕掛けてきました。しかしイエスの決然とした神の理論に何も言葉を発することが出来ず、彼らは立ち去りました。その後イエスはこの「ぶどう園の農夫のたとえ」をお話になられたのです。

私は今回、旧約時代からの流れの中で誕生されたイエスの使命を、改めて理解することが出来ました。

旧約の時代、ネヘミヤ記9:26に記されていた民の「大罪」、すなわち預言者を排斥する行為はイエスの時代に頂点に達します。神は忍耐強く、その愚かな人間たちを救うために満を持して愛する息子イエスをこの世に送られたのですが、結局、たとえ話にある通り、イエスを十字架上にかけて殺してしまったからです。

また、このたとえ話において、主=神、農夫=イスラエルの民、僕=預言者という背景から、繰り返し自分たちの利害のみで悪に囚われ行動する民の身勝手さ、愚かさの極みを知ることとなりました。

そして私はただ、このたとえ話では人間の愚かさに焦点を当てるだけでなく、勝算がなくとも神のご計画にひたすら突き進まれたイエスの御心と、愛する息子をこの世に送られた神の愛に目を注ぎ、その愛を心で感じることが大切であると思いました。

気づくことの無い律法学者をはじめとする権力者は、神の愛をハートで理解することが出来なかった…。

イエスのこの世における誕生。
それこそが聖書そのものの歴史を学ぶということであると感じました。

エルサレムにおけるイエスの存在は権力者にとって益々大きくなっていきます。
次回もそのイエスの道を辿ることで学びを進めていきます。(Y)


秋咲ヒマワリ

 

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