マルコ通読37(マルコによる福音書14:43〜52)2019/2/1
カテゴリー:活動記録
今回心に響いた御言葉は…
そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」(マルコによる福音書14:48〜49)
祭司長、律法学者、長老たちに遣わされた群衆が一団となり、イエスを捕らえるためゲツセマネにやってきました。その手引きをしたのは、彼の12弟子の1人であるユダでした。
イエスの存在を疎ましく思う権力者は、この時を待ちに待っていました。ついに彼らの「時」が来たのです。
その権力者に扇動され群衆たちは、愚かにも剣や棒を持ってやって来ました。でもイエスは、ご自身が死に追いやられようとする時でさえ、愚かな群衆を憐れむかのように「これは聖書の言葉が実現するためである」と語られました。
そのようなイエスの御言葉を、群衆たちはどう受け取ったのでしょうか。
もしかしたら、その群衆は頭が一瞬真っ白になり、剣や棒を振り上げたまま固まってしまったのではないかと私は想像しました。
一方、イエスを敬愛していたはずの弟子たちは、その「間」にイエスの元から散り散りに逃げていったのでした。
今回私は、記事の状況にいっそう深く入る事が出来ました。すると、イエスや弟子たち、群衆たちの息遣いが肌で感じられ、それによって福音書の理解が深まったと思います。
イエスの行動は、どのような時にも弱い人間への憐れみに満ちています。人間の本質である弱さや愚かさを熟知なさっていたのですね。すべては「御心のまま」として…。
イエスの憐れみ深い御姿は私達のなすべき行動の指針となります。
次回もその学びを大切に、イエスの受難への道を学んで行きます。
2019年2月12日