マルコ通読39(マルコによる福音書15:6〜15:32)2019/2/15
今回心に響いた御言葉は…
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコによる福音書15:29〜32)
総督ピラトがイエスの死刑を決定するまでの間、ピラトは3度にわたり宗教指導者らや民衆たちにイエスの行ったことが罪にあたるのかどうかを問いました。指導者たちの企みが分かっていたピラトは本音としてはイエスを殺したくなかったのでしょう。
しかし民衆が「イエスを十字架につけろ」と騒いだことで、ピラトは自分の保身を選んだのでした。ユダヤの治安を乱すことは、自分の統治能力の低さを示すことになるからです。
判決を受けたイエスは、兵士らから侮辱を受けた後、十字架につけられるため外に引き出されます。そして、ゴルゴダの丘で十字架刑に処されたのです。左右二人の犯罪人とともに…
そこを通りかかった人は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ(29〜30)」と言ってイエスをあざけります。同様に、祭司長、律法学者たちは、かわるがわる「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう(31)」と侮辱の言葉を放ちました。彼らは、イエスの苦しむ姿を見て心を痛めるどころか、さらにその苦しみに追い打ちをかけたのです。そこにはひと欠けらの悔い改めもありませんでした。そして最後まで「目に見えるしるし」にこだわり、イエスの心が結局最後まで理解できなかったのです。
今回の通読では多くのことが学べました。
・民を導くはずの宗教指導者らは、民衆らと同様にイエスをあざけり侮辱しました。その姿は、彼らが民衆と本質的には同じレベルの人間であることを証明したのです。
・「他人は救ったのに、自分は救えない。」 イエスへのこの罵倒は、実はキリスト者への最高の誉め言葉だったのです!
・聖書に出てくる情けない人物を、読者はけなしてはいけない。その人物は私たちの姿かもしれないからです。私自身、いつピラトのように保身に傾くか分かりません。
・イエスの次元は私たち人間には計り知れない高みです。どのような状況下にあろうとイエスは「自分自身」を求めてはいなかった。ただ神の御心に委ね、十字架に身を置かれたのでした。
次回も真摯な心をもって、頭ではなく心で学びが感じられるよう努めていきたいと思います。主に感謝。