大学礼拝「自粛?」2020/7/23
【マルコによる福音書 3:1-6】
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
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今日の聖書の箇所は、イエスが安息日に手の萎えた人を癒やした、という物語です。
安息日というのは、週の最後の日は休まなければいけない、というユダヤ教の律法です。イエスの時代、今日の物語に出てくるように、安息日に病気の人を癒やすことも許されませんでした。
しかし、この安息日の規定は、本来、労働者が確実に休息できるようにするために形成されたものでした。また、それは単なる休息ではなく、日々の営みを一旦中断して日常を振り返り、見直す機会でもありました。ところが、いつしか元の意味が忘れられ、人間をしばる法律、そして社会を支配する道具になってしまいました。
イエスは、そうした状況の中で、人々に問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。」これはつまり、本当に大事なことは、法律を守ること、常識を守ることではなく、命を守ること、人間を大切にすることではないか、ということです。そして、イエスは、安息日に手の萎えた人を癒やされました。当時この出来事は、現在の私たちの社会では考えられませんが、法律破りの危険な振る舞いでした。実際、このことは当時の支配者たちの権威を失墜させるものであり、彼らの逆鱗にふれ、イエスの殺害が計画されることになってしまいます。
しかし、イエスは、安息日だからと、法律の規定だからと、何もかも自粛する、ということはありえませんでした。むしろ、当時の常識に反して、この社会で不要と思われてしまうような人たち、触れてはならないとされた人たちに、積極的に寄り添っていかれました。
柳城の建学の精神とは、このように、たとえ一般の常識、世間の当たり前からかけ離れたとしても、目の前にいる一人ひとりの人間の尊厳を徹底して大事にする、ということです。
イエスは、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。社会の隅に追いやられてしまうような人たちが、社会の真ん中に立つことのできる世界を、私たちも追い求めたいと思います。そしてまた、ここにいるお一人お一人にも、イエスが今、あなたは、真ん中に立ってもいいのだ、と呼びかけられていることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)