大学礼拝「命の息」2020/8/6
【創世記2:4b-7】
2:4b主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
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聖書の創世記の冒頭には、神が人間を創造したことについて、2つの異なるストーリーが連続して掲載されています。一つは、創世記の第1章で展開されているものです。1日目に光を創造し、2日目に大空を作り、そして6日目に、「神は御自分にかたどって人間を創造された。神にかたどって創造された」という物語です。
もう一つの人間の創造物語が創世記の第2章にあります。それが先程お読みした箇所です。その記事によれば、神は、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」というものです。先程の、神にかたどって想像されたという箇所とは趣が異なります。
この創世記は、いくつかの資料を組み合わせて編纂された、と言われています。そして、最初に出てくる人間の創造物語、すなわち6日目に、神にかたどって人を創造された、というストーリーは、紀元前6世紀に語られたものと言われています。その頃、イスラエルの人々は自分の国ではなく、遠くバビロニア帝国の領土に連行されて生活していました。というのも、イスラエル王国は、バビロニアによって滅ぼされてしまったからです。そんな、とても厳しい状況の中で語られたのが、この第1章です。それが、人は本来、神によって創造された素晴らしいものだ、というものです。「神はお造りなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という物語は、絶望的な状況に置かれていた人々に慰めと勇気を与えるメッセージとなりました。
一方、今日お読みしました第二の物語、すなわち、人間は土から作られた、というストーリーが語られたのは、先程の捕虜時代よりも、何百年も前のことだと言われています。その頃、イスラエル王国は、最も繁栄を極めていた時代でした。そうした時代にあって、この物語は、人間が自分たちで何でもできる、という、人間の力への過信を抑制する意味がありました。人間は土の塵から作られたものに過ぎない。神が息を吹きかけられたからこそ、私たちは生かされている。人間が自分の力で何でもできると思うのは間違いだ、というメッセージは、驕り高ぶる人々に反省と抑制を促すものでした。
人間の創造について、タイプの異なる2つの物語が、同じ創世記に記されていることの意味を私たちは大事にしたいと思うのです。すなわち、人間は、本来良いものとして、神に似せて作られたということ、しかしながら、一方でそれは、土のチリで作られた弱いものであり、神の息、神の恵み抜きには存在し得ない、ということです。
現在、新型コロナウィルスが世界を席巻しています。これまで常識が覆されるような大きな不安の中で、また毎日のように起こる新しい事態への対応に追われれる中で、私たちは翻弄されています。そんな中、人間の弱さを思い知らされることも多いかと思います。これまで当たり前に自分の力でやってこれたと思っていたことが、崩れ去る思いをされていることもあるかと思います。
そんな中で、私たちは弱く、はかないものである、ということを、思い知らされます。しかしながらそれは同時に、私たちが、神に息を吹きかけられて日々生かされている、ということを、思い起こす時でもあるように思います。
そもそも、私たちは自分で息をしているように思いがちですが、自分の力で息をし続けている人はいないわけです。私たちは息をさせられるようにして、生かされています。そう考えますと、私たちの一つ一つの息とは、実は、神から与えられたもの、神が吹き入れられた息によるもの、と考えても良いかもしれません。
様々な困難に翻弄されてしまったとき、ちょっと一息ついてみて、その息こそが、神が吹きかけられた息であり、神の創造の痕跡であり、そして、その働きは今も自分の中で続いているのだということに思いを馳せたいと思います。そのようにして、今、自分が生かされているのだということを感じながら、この夏を過ごして参りたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)