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大学礼拝「祈りを委ねる」2020/9/10

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書6:7-8】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

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皆様の中には、大学入試の時などに、どこかの神社に行って「試験に合格しますように」とお祈りをしたり、合格祈願のお守りなどを買ったりした経験がある方も多いのでないかと思います。

苦しいときの神頼み、と言いいますが、お祈りというと、自分が願うこと、求めることが実現するようにと、祈るのが一般的だと思います。困難な状況に陥った時、「神様、助けて」と祈るのはごく自然な感情で、それ自体は大切なものだと思います。ただ、その祈りが、自分のためだけの祈り、自分勝手な祈りとなり、他の人を貶めることがないか注意が必要だと思います。とは言うものの、私たちはどうしても、自分のことを中心に考えてしまいます。自分勝手、自己中心から、私たちはなかなか逃れることができません。そう考えていきますと、どう祈っていいか分からなくなってしまいます。

イエスは、言います。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」

「くどくどと祈る」とは、あれがほしい、これをしてほしいと、自分勝手に、自己中心的に、神に自分の希望を要求することを意味します。神は、自分の願いを何でも叶えてくれる安価な四次元ポケットではありません。神が、人間である自分の思った通りのことをしてくれるのであれば、それはもはや神ではなく、自分自身となってしまいます。

そこで私たちは、発想をひっくり返す必要があります。それは、神に自分の願望をお願いする、自分から神に願うことを考えるのではなく、神が求めていることを自分が行うことができるように願う、ということです。

考えてみれば、そもそも神は私たちを理解しています。何が必要かもわかっておられます。そしてそれは、自分が願っていることとは違うことかもしれません。したがって、私たちが祈ることとは、自分が神に依頼して神に動いてもらうことではなく、その逆で、私たちの狭い思いを超えて、自分が神によって動かされること、神の必要性に自分自身の身を委ね、投げ出せることを願う、ということです。つまり、祈るとは委ねることです。

では、具体的にどのように祈ったらよいのでしょうか。その一つの明確な答えこそ、私たちがいつも唱えている「主の祈り」です。

すなわち「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。私たちの思いが、自分の願いが、ではなく、神のみこころが私たちの間でおこなわれますようにと祈ることです。

みこころが地にも行われますように、みこころがこの柳城学院にも行われますように、みこころがここにいる私たち一人ひとりにも行われますように。今日もそのように願ってまいりましょう。(チャプレン 相原 太郎)


芝生の水やり

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