大学礼拝「地の塩」2020/10/1
【マタイによる福音書5:13-16】
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
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今日の箇所は、山上の説教とか、山上の垂訓と呼ばれている箇所の一部で、イエスが教えを述べた、大変有名な箇所です。
地の塩。塩は、私たちの食生活、そして、私たちの生命維持にとって必要不可欠なものです。かといって、塩を単独で食べることはありません。なにか他のものに、混ぜ合わされ、なじませることによってこそ塩です。
イエスは「あなたがたは地の塩である」と語ります。私たちが地の塩として生きるとは、何を意味するのでしょう。
それは、私たちが、他者、隣人の間にあって、他者に仕えること、隣人を愛すること、大事にすることによって、その人々の人生が、無味乾燥なものから、豊かなものになること、本来その人が持つ個性が引き出されること、一人ひとりの固有の人生が大切にされることを意味します。
当時、このイエスの教えを聞いていた人たちは、たとえば社会で大きな責任を担っている人とか、学校で勉強したエリートとか、そういう人たちではありませんでした。もし、イエスの教えを聞いた人たちが、たとえばエリートだったとしたら、地の塩として生きるとは、社会のリーダーとして人々を導く、というふうにも理解されたかもしれません。
ところが、今日の話はだいぶ趣が違います。イエスがこの話を誰にしていたかというと、社会のリーダーなどではなく、むしろ、その反対でした。貧しい人たち、病気の人たち、政治的宗教的に差別されていた人たちでありました。今日の箇所の直前で、イエスは、心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え乾く人、迫害される人は、幸いだ、と述べています。そして、イエスは、そういった人たち、貧しい人たち、悲しむ人たちに対して「あなたたちこそが、地の塩だ」と述べるわけです。
しかも、とりわけ重要と思えるのは、あなたたちは、努力すれば塩になれる、努力して塩になりなさい、とか、将来、地の塩となって頑張るべきだ、というふうにはイエスは言っていないということです。そうではなく、あなたたちは、そのままで、すでに地の塩なのだ、と断言されている、ということです。
イエスは、今、悲しんでいる人、今、貧しい人、今、病気の人、孤独の中にいる人、そういうあなたこそが、そのままで地の塩なのだ、と言っているわけです。塩は、生活にとって必要であり、人間の命に必要不可欠なものです。そのように、あなたがた一人ひとりは、この地上、この世界にとって、必要不可欠な存在、取り替えが不可能な存在なのだ、ということです。
私たちは、今、この社会に生きる中で、様々な不安を抱えています。イエスのメッセージは、そういった不安を乗り越えて、不安を振り払って、地の塩になりなさい、ということではありません。立派な人物になって周りをリードしなさいということではありません。そうではなく、不安をかかえる、困難を抱える一人ひとりの存在そのものが、地の塩なのだ、大切なのだ、神から愛されている存在なのだ、ということです。様々な痛みや悲しみをいだいているあなたがたこそ、愛をもって仕える人なのだ、ということです。
イエスは、今、ここにいるお一人お一人に、「あなたがたは地の塩である」と語りかけておられることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)