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大学礼拝「手を取って起こされる」2020/11/19

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書1章30~31節】
シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 

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    ここに登場する女性の説明として、「シモンのしゅうとめ」と書かれていました。しゅうとめとは、妻の母親ということです。妻の母が、夫の家に住んでいるということになります。現代でも、妻側の親が、娘さんとその夫の面倒になる、ということは、そんなに多いケースではないと思います。そして、この聖書の時代においては、親の面倒は長男が見るのが通例でした。したがって、このシモンのしゅうとめのケースは、この時代としては異例な状況でありました。彼女は、通常ならば面倒を見てくれるはずの人がいなかった、あるいは、そうした人たちから見放されてしまっていた、ということが考えられます。そして、やむなく、嫁いだ娘さんの家に転がり込んでいる、という状況なわけです。しかも、転がり込んだその家で、寝たきりの状態になっていました。
このように考えてみますと、彼女は大変に追い込まれた状況であり、肩身の狭い思いをしていたことでありましょう。世間からの冷ややかな目線、家族への申し訳ないという思い、誰からも厄介者として見られているという孤独、そして病い、様々な痛みが彼女の中で渦巻いていました。

そんな彼女のところに、イエスは訪れました。そして、進んで彼女のところにイエスのほうから近づき、「大丈夫だ」と彼女の手をしっかりと握りしめ、彼女のしんどい思い、痛みを共有するのでありました。誰からも見向きもされなかった、孤独と悲しみに打ちひしがれていた彼女は、そのようにして、癒やされていくのでありました。イエスがしっかりと握りしめた、その手の感触が、彼女と周りの人々との関係性を回復する結合点となっていきました。そして、彼女は起こされて、再び立ち上がることができたのでした。

熱がひき、イエスによって起こされた彼女が最初にしたこと、それは、「みんなをもてなす」ということでありました。この「もてなす」とは、実は私たちの学校の標語である「愛をもって仕えよ」と同じような意味をもった言葉です。
人間関係を回復した彼女、人と人とが触れ合うことの大事さを、イエスの握りしめた手によって実感した彼女は、今度は自らがその実践者となっていくのでした。

今、様々な困難をかかえておられる学生が、この学院にもおられると思いますし、私たちの身の回りにもおられると思います。私たちも「愛をもって仕える」ことの実践者として、隣人との人間のつながりの回復を求めていきたいと思います。

そして、何よりも、私達自身の手を、他ならぬイエスが、しっかりと握りしめて、「大丈夫だ」と、立ち上がらせてくださっていること覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


総務課事務室

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