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大学礼拝「開け」2021/04/15

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書 7章31-34】
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 

イエスがガリラヤ湖という湖のほとりに来ると、そこに一人の耳の不自由な人が人々に連れられてきました。するとイエスは、その人を群衆の中から招き出されます。
当時、こうした人たちは、他者とのコミュニケーションについて困難があっただけではありませんでした。現代以上に人々から差別され、さらには宗教的な意味でも差別の対象となっていました。それはすなわち神からも見放された者とみなされたということです。彼は、人からも神からも自分は見捨てられた者だと感じさせられていたのでした。
イエスはそのことに強く心を痛めます。その時イエスは、「天を仰いで深く息をついた」のでした。「深く息をつく」とは、「うめく」という意味合いの言葉です。人の痛々しい姿を見たり辛い気持ちを聞いたりすると、自分まで胸が痛くなってくるという経験をしたことがあると思います。イエスも彼の痛みとうめきに深く共感されます。そしてイエス自身もうめくのでありました。
そしてイエスは、当時の社会においては常識を逸脱した行為でしたが、彼の耳と口に触れます。そして、「エッファタ」と言って、その人を癒やされるのでした。
「エッファタ」とは「開け」という意味です。それは、彼の耳と口が開くことですが、それは、単に彼の肉体に変化をもたらすということではありません。イエスは、彼の痛みに深く共感し、さらに社会の慣習を打ち破って彼の身体に直接触れることを通して彼を癒され、閉じられてしまっていた彼と人々との関係性、そして、神との関係性を回復されるのでありました。それこそが「開け」ということの重要な意味でありました。

人々との断絶からの回復という出来事は、彼のみに起きたことではありません。関係性の回復ですので、それは、彼の周りにいる人たち全てに起きた出来事でもあったはずです。彼のことを遠ざけていた人、あるいは、そもそも存在に気づくことすらなかった人にとって、彼との関係性の回復は大きな変化でありました。その意味では、イエスの「開け」という言葉は、彼一人が他者に開かれるというよりも、周りにいた人々こそが彼に対して開かれると考えるべきかもしれません。

そして今、この「開け」というイエスの言葉は、今日ここにいる、私たちへメッセージでもあります。
私たちはさまざまな形で気づかないうちに、社会的にマイナスのレッテルが貼られた人たちとの交わりを断絶し、あるいは一段低く見たりしてしまうことがあると思います。さらには、私たち自身もまた、この現代社会の中でさまざまな形で深く傷つけられ、自分の中に閉じこもるような状況に追いやられていることがあるかもしれません。
イエスは、そうした私たち一人一人の具体的な痛みを知り、そのうめきに耳を傾けられ、共にうめき、そして「開け」と願っておられます。私たちは、そのことを覚えながら、私たち自身もさまざまな場で新しい気づきが与えられ、開かれることを求めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


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