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大学礼拝「生活費を全部入れた」2021/4/29

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書 12章41‐44節】
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿を訪れると、ある一人の貧しいやもめがやってきます。当時、夫と死別すると、妻は収入源を失い、様々な社会的な権利も無くなってしまいました。今以上に男性中心の社会の中で、大変に貧しく苦しい生活を強いられていました。
そんな貧しい一人の女性が、神殿を訪れます。そして、生活費の全てを、賽銭箱に入れたのでした。生活費をすべて投げ出したと聞くと、この女性はなんと無謀なことをしたのかと思われるかもしれません。しかし、この物語はこの貧しい女性と当時の宗教指導者たちとのコントラストで、考える必要があります。
イエスは、当時の宗教指導者、神殿で働く人たちを批判してこんなことを言っています。彼らは長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることを喜んでいる。会堂や宴会の席ではなるべく一番の上座に座りたがろうとする。そして、見せかけの長い祈りをしている。
イエスはこのように述べて、当時の指導者たちが、さまざまな行為を人に見せびらかすためにやっているに過ぎず、それはすなわち、自分が少しでも今以上に優位な立場に立つためなのだ、と批判しています。祈りすらも、それを見せることで自分が高く評価され、安定した地位に居座るための手段になってしまっている、というわけです。
それに対して、賽銭箱に生活費全部を入れた女性の行動は全く正反対でした。生活費全部とは、人生の全て、あるいは生活丸ごと、という意味です。人生を全て差し出してしまったら、そして文字通り全財産を差し出してしまったら、女性に残るものはありません。それはすなわち、この女性が宗教指導者たちとは異なり、こうした行為を人に見せびらかすためでもなく、自分の安定のためでもなく、もっと大切なもの、つまり、神のため、そして他者のために行っているということです。
ところが、この女性の純粋な人々の気持ちを踏みにじるように、当時の宗教指導者たちは、こうした女性たち、貧しい人たちを、神から見放された者であるかのように扱い、さらには、例えば献金の一部を自分の懐に入れたりするなどしていました。
このような有様を見て、イエスは神殿に失望してそこを去り、神殿は遠からず崩壊すると話すことになります。

この物語をどのように受けとめますでしょうか。
こんなふうに思うかもしれません。すべてを投げ出すのは、確かに美しいことかもしれない。神のため、そして人のために、持っているものを全て差し出すことができれば、確かに、それは素晴らしことだろう。でも、そんなこと、私にはとてもできない。生活をしていかなければならないしと。
確かに、イエスの要求は、私たちにとって厳しく激しいものです。この世の常識に囚われ、日々の生活の安定を求めてしまう私たちには、なかなかそんなことはできません。生活の全てを投げ出すなど、不可能だと考えると思います。
ただ、この話のポイントは、この貧しい女性と宗教指導者たちとのコントラストで考える必要があります。
貧しい女性と宗教指導者の間では、献金に対する考え方が、全く異なっていました。貧しい女性は、献金を文字通り、神に返すため、神に用いてもらうために、自分の欲望を投げ出すようにして差し出しました。そこには私利私欲はありませんでした。
しかし、ここで批判されている宗教指導者たちは、宗教的な行為を人に見せびらかすために行っていました。つまりそれは紛れもなく自分ためでありました。神のため、他者のためか、それとも単に自分のためか、ここに大きな違いがあります。

例えば、災害が起きた時などに、どこかに寄付をしたり、あるいは自ら出向いて時間を割いてボランティアをしたりすることもあると思います。
こうしたことは、見せかけのため、自分が人からどう見られるかと自分の評価を高めるために行っているのではないはずです。本来的には、自分の時間、自分のお金、自分の身を削って奉仕する、ということのはずです。自分の時間が余っているから、自分のお金が余っているから、その余った部分、自分が痛まない部分だけで活動する、ということではないと思います。
人に関わる行為をする時に、自分が痛むか痛まないかということ、これが、自分だけのためなのか、それとも他者のためなのかを見定めるヒントになります。愛によって仕える、ということは、自分が痛まない範囲で、あるいは自分が余っている部分でする、というものではありません。ましてや、人に見せて自分の手柄にするために行うようなものではありません。
もちろん、全てを投げ出すことなど、なかなかできないかもしれません。しかし、人に何かをする、という時に、それが、単に自分のためではなく、自分がある程度痛むことがあっても、その人のためになれば、と行動したという経験はきっとどこかであると思います。
そして、そもそも私たちがそのように自らを投げ出そうとするよりも前に、まずイエス自身が、私たちのために全てを投げ出され、命そのものを私たちに与えられた、ということを覚えたいと思います。彼は持っているものの一部を切り取って、投げ出したのでもありませんし、ましてや自分のために行ったのでもありません。
キリスト教の神とは、イエスが十字架で示されたように、神自身が自ら痛み、私たちのために自らを差し出される愛の神です。
神自身が私たちのために身を投げ出されること、そのような愛が、私たちに降り注いでいるということ。そこにこそ、私たちが自分の利益のみを求めて生きることを超えて、お互いに愛によって生かし合うことができるという希望があります。

あの神殿の女性の行為に現れたように、すべてを投げ出し、痛みを持って私たちを愛されるのが神の姿です。そのような神に導かれて、私たちもまた、自分の利益を超えて他者に仕える者として歩んでまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


タイム・ロンギカウリス

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