大学礼拝「岩の上に土台を置いて家を建てた人」2021/7/1
【ルカによる福音書6章46-49節】
6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
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イエスの最も有名な教えの一つは、「貧しい人々は幸いである」という言葉から始まる、「山上の説教」と呼ばれているものでありましょう。「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」など、有名な教えがいくつも語られます。その締めくくりが今日の箇所で、それまで語った教えをただ聞くだけではなく行うことが大事なのだということです。
行うことが大事と言われますと、確かにそうだと思う一方で、そんなことはなかなかできない、無理だ、とも思うかもしれません。また、行うことが強調されますと、成果が大事、結果が全てと言われているようで、責められているように感じるかもしれません。しかし、この箇所は、単に、具体的に実践しなければ意味がない、結果を出せなどと言っているわけではありません。むしろ、結果を出せない人のための福音とさえ言えるかもしれません。
イエスは、愛の教えを行うことについて、家と土台を譬えに用いて説明します。ここで土台が意味するのは、イエスの言葉を聞いて行うということです。それによって人生の中で襲ってくる洪水にも耐えられる、ということになります。
では、イエスの言葉を聞いて行うこととは、どんなことでしょうか。この譬えは、「貧しい人は幸いだ」、「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」といった説教のまとめです。つまり、こうしたことを行うことが人生の土台となるのだというわけです。敵を愛し、頬を打たれたらもう一方の頬を向けることで、私たちの人生は、嵐のような試練、洪水のような難題が降りかかっても、神に支えられ、倒れることなく歩んでいけるのだ、ということになります。
もちろん、こうしたことを実際に行うのは難しい、ハードルが高い、と思われると思います。そして、実行できない自分は土台も持てず、人生の洪水にも嵐に耐えられないと考えるかもしれません。しかし、イエスは、実行しなければ、あなたは人生の洪水が来たときに流されてしまう、という警告を発しているわけではありません。
イエス自身の行動を振り返ってみれば、そのことは明らかです。イエスが関わりを持っていた人たちというのは、このような実践を積極的に行う活動的な人たち、何があっても倒れないような人生を歩んでいる人たちというわけではありませんでした。むしろ、無力感に苛まれ、人生に絶望し、傷つき、倒れてしまっている人たちでありました。
イエスの弟子にしてもそうです。今日の箇所は、弟子たちに対して、行いの重要性を強調しているわけですが、実際、イエスの弟子たちがどうだったか、というと、弟子たちは最後の最後まで、イエスの言うことを行うどころか、イエスの言うこと自体を誤解する有様でした。さらには、イエスの逮捕時には、行動を起こすどころか、とうとうイエスから逃げ出してしまいます。つまり、イエスの弟子たちも、イエスの言ったことをしっかりと実行する集団などではなく、むしろ、イエスの言うことを理解することもできない人たちだったのありました。
そんな弟子たちに対するイエスのアドバイスとは、聞くことと行うことを切り離さないように、ということでした。イエスが言った言葉だけでなく、イエスが具体的に何をしたのかを合わせて理解することが大切だということになります。
イエスが具体的に何をしたかというと、それは人に会うということ、一緒に食事をするということでありました。とりわけ、貧しい人、困難の中にある人、差別を受けている人、病気で苦しんでいる人、そして子どもたちと出会い、一緒に食事をすることでした。イエスは、力強く生きている人たちよりも、むしろ、無力な人たち、絶望の中にいる人たち、人生に倒れてしまっている人たちに向き合い、その尊厳を大事にし、一緒に涙し、一緒に喜び、一緒に傷つきながら歩まれました。それを言葉として表現したのが、「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」ということでありました。
イエスは、私たちに、人生に倒れないように強く生きろ、そのために実践せよ、と言っているのではありません。もし私たちが自分の力だけ全てを成し遂げようとすると、結局、自分の行動の立派さこそ大事だということになり、それでは自分自身を土台とすることになってしまいます。
イエス自身、十字架にかけられ、決定的に無力な者となりました。イエスは、傷づいた者、弱い者として、十字架上で絶叫し、倒れ、死んでいったのでした。そのように、人間の絶望の中に倒れたイエスであるからこそ、復活のイエスは私たちの土台となり、私たちのことを心底理解してくださいます。イエスが、なかなか理解しようとしない弟子たちと生涯向き合ったように、私たちをすぐに倒れてしまいそうになる者として受け止めてくださいます。イエスは、私たちに言います。倒れてもいいのだと。むしろ、そのように弱く、傷つき、倒れてしまうあなたを大事にしたいのだと。
イエスが人生をかけて伝えたことは、揺らいでも、倒れても、貧しくても、他人から否定されていても、私は必ずあなたと共にいるのだ、ということでした。弱さや揺らぎの中にある私たちであるからこそ、イエスは一緒におられます。
そして、そんなイエスであるからこそ、私たちに、困難の中にある人々と共に生きてほしい、敵を愛し、赦しあう生き方をしてほしい、と呼びかけていることを覚えたいと思います。 (チャプレン・相原太郎)