大学礼拝「空の鳥をよく見なさい」2021/11/18
【マタイによる福音書 6章25~34】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
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この話は、有名な山上の説教、「心の貧しい人々は、幸いである」から始まるイエスの教えに含まれるものです。その説教の冒頭に次のように書かれています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」。山上の説教は、この群衆に語りかけたものですが、それがどんな人達なのかについてその直前に書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
山に集まってきたのは、このような人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。自分たちのことを、神様の恵みや祝福から見放された者だと思っていました。
そんな彼らに語ったのが今日の言葉でした。この言葉は、抽象的な世間一般に対して語ったものではありません。あるいは、それなりの暮らしをしている人たちに対して、もう少し質素になろうと述べているものでもありません。この言葉は、貧しい人たち、差別や病によって生きる希望を失った人たちに対して向けられたものです。そんなわけですので、その人たちを前にして、たとえば、もっと質素に生きようと語ったとは考えられません。彼らはすでに十分すぎるほど質素に生きています。
では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょう。空の鳥は、種を蒔くこともしないが、父は鳥を養ってくださるとは、どういうことか。それはすなわち、働く人も、そして、働かない人、働けない人も、神によって生かされているのであり、生きていていいのであり、生きるべきなのだ、ということです。全ての人は、生きることが赦されているのであり、鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、何の条件もなしに、きちんと食べることができる、この世界は、この社会はそのようにあるべきだ、ということです。
種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、様々な理由で社会から排除されているが、神の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことはありえない。神は全ての人を大切にされる。だから全ての人間は無条件で生きていてよいのであり、生きられるようにすべきなのだ、と述べられたわけです。
現代に生きる私たちも、イエスが、あの山の上で語られた言葉を、今、ここで聞いています。イエスは言います。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言われてはならないのだと、イエスは語りかけておられるはずです。
空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い、そして、私たちもまた、神様によって無条件に生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら過ごしたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)