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大学礼拝「皆に仕える者に」2022/5/25

カテゴリー:大学礼拝

【マルコによる福音書10:42-45】
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

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 弟子たちは「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とイエスにお願いしています。これは、イエスが天下を取ったら、自分たちがナンバー2、ナンバー3になりたい、ということです。弟子たちは、この時、イエスのそばにいることで、将来の身分が保証されるはずだ、というように考えていました。しかしイエスは、人間がいくら頑張っても、いくらイエスのそばにいたからと言っても、将来の身分保証にはならない、と語ります。むしろそれは、結局はただ自分のためにやっていることでしかない、と見抜いておられるわけです。
マルコによる福音書の最後の方を見ると、弟子たちの願望であった「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人を左に」という言葉が、全く意外な形で達成されたことがわかります。それはイエスが十字架に架けられた時のことです。イエスが、十字架によって処刑されたとき、イエスとは別に、二人の強盗が、「一人は右に、もう一人は左に」十字架につけられて、処刑されました。そして、イエスは横にいた死刑囚の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げて祝福します。
神の子であるイエスは、十字架によって処刑されます。それは、神ご自身が人間と同じように死ぬ、しかも最も残酷な形で処刑されるということです。そのようにして、神の子が私たち人間と同じ死の苦しみを経験し、最も悲惨な痛みと敗北、挫折、絶望を自ら担うことを通して、私たちに心底寄り添われる、ということを示されました。これこそが、イエスにとって栄光であり、それは、弟子たちが思い描いていた栄光とは、まったく次元の違う事柄でありました。

一般にキリストに連なる者とは、イエスに従うことこそ大事なことだと考えていると思います。しかし、今日の箇所から見えてくるのは、そのイエスに従うという時の態度、考え、思いが、どのようなものなのかが重要であるわけです。もし、イエスに従う理由が、この世的に成功したいとか、自分だけがよくなりたい、ということだとしたら、それは結局、イエスに従っていることにはならない、ということです。

そこでイエスが弟子たちに対して述べたのが、「皆に仕える者になりなさい」ということでした。イエスは、「自分に仕えなさい」「イエスに仕えなさい」とは言いませんでした。イエスは、「皆に仕える者になりなさい」と語るわけです。弟子たちは一生懸命イエスの方ばかり向いているように見えました。しかし、イエスを見ているようで、実は自分のことばかり見ていました。イエスは、そんな弟子たちに対して、皆に仕える者になりなさい、と言います。

この「仕える者になりなさい」とは、人に支配されなさい、ということではありません。イエスが言っている「仕える」とは、上下関係や力関係を前提とした一方的な関係ではありません。イエスの言う「仕える者」とは、互いに仕え合うことを通して実現するものです。上下関係、支配・被支配の関係から自由になって、お互いのことを大切にし合う関係になる、ということです。それは、当初の弟子のような上昇志向や権力志向から離れること、言い換えれば、この世的な報いを放棄する、捨てる、ということです。何か、自分にメリットがあるから、この人と関係を持っていようという、そんな関係性から離れよう、ということです。

私たちは、このような仕え合う関係を、身近な場で、そして、この世界のあらゆる場で、求めていきたいと思います。それは、支配する、支配されるという関係、損得勘定やメリットのあるなしで人と向き合うのではなく、愛によって互いに仕え合う関係へと変わっていくということです。仕える者になるとは、そのような世界の変革を求める、大きなヴィジョンでもあります。私たちがそのようなヴィジョンに向かって共に歩んでいければと思います。    (チャプレン 相原太郎)


クローバー畑

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