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大学礼拝「自分が正しい人間だとうぬぼれて」2022/6/1

カテゴリー:大学礼拝

【ルカによる福音書18章9~14節】
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

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 当時の社会では正しい人物の代表格であったファリサイ派の人は、こう祈ります。自分は、こんなことをします、あんなことをしています、だから、神様に感謝します、というような祈りをします。一方、嫌われ者の代表格であった徴税人の方は、ただ、神様、私を助けてください、憐れんでください、と祈ります。
さて、私たちは、どちらのお祈りをお手本にすべきでしょうか。おそらく、この二人の対照的なお祈りの仕方を見れば、自分の行動を自慢するように祈るファリサイ派ではなく、謙虚な徴税人の祈り方を、お手本にすべき、と思うのではないかと思います。
しかし、このたとえをイエスが語った当時、聞いていた人たちは、徴税人を手本にすべきとは思っていませんでした。むしろ、ファリサイ派こそが正しいと思っていました。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループで、大変熱心にユダヤ教の教えを守り、自ら清く貧しく生活していました。そんな姿から、当時の一般の市民の間では、大変に尊敬されていました。ここでのファリサイ派の祈りは、誇張したり自慢したりしているように見えるかもしれませんが、実際のところ、自分たちがしていることをありのままに語ったとも言えます。

一方、ローマという外国の支配者の手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。しかも、徴税人たちは、決められた金額以上に税金を取り立てて、私服を肥やすのが当たり前でした。外国の支配者のために働き、しかも、その立場を利用して不正に利益を得ていたということで、誰もが、悪人だと感じていました。

神から正しいとされるのはファリサイ派である、と考えるのが、当時としては素直な感情でありました。ところが、イエスの答えはまったく反対でした。正しいのは、ファリサイ派ではなく、徴税人でした。
不正を行っている徴税人のほうが正しいとする、そのポイントの一つは、ファリサイ派が「正しい人間だとうぬぼれている人」という文言です。
「うぬぼれている」という言葉は、原文では「自分自身に頼る」というような意味をもった言葉です。ファリサイ派は、週に二度断食をしたり、全収入の十分の1を献げたりなど、当時の宗教者としては、極めて真面目に規律を重んじて生きていました。問題は、ファリサイ派が、自分が努力していることに頼っている、ということでした。それは、裏を返せば、神に頼ることをせず、自分だけを見て、自分自身の力だけを頼りにした生き方であった、ということです。
ファリサイ派は次のようにも祈っています。自分が「この徴税人のような者でないことに感謝します。」結局のところ、ファリサイ派は、神に向かって祈っているはずなのに、実際には、徴税人のほうを見て、そして人と自分を比べ、自分の方ばかりを見て祈っていたわけです。

一方徴税人はどうでしょう。彼はただ、「私を憐れんでください」、神様助けてください、と祈ります。そこには他者との比較はありません。自分を頼りにすることもありません。
この徴税人は、自分の力で自分自身を救うことなどできない、という自覚がありました。そして、ただ、神に寄り頼んでいます。だからこそ、この徴税人こそ、神と正しい関係にあるのだ、とされるのでありました。

私たちは、この現代の日本で、自分自身だけを頼りにし、自分の努力で、様々な困難を乗り越え、生きていかざるえない社会で暮らしています。そんなことで、私たちは、自分自身に頼ることは慣れていますが、人を頼りにし、助けを求めることには慣れていません。
しかし、私たちは、自分だけを頼りとする必要はありません。むしろ他の人を頼っていい、助けを求めていい、ということを確認しておきたいと思います。助けを求めることによって、自分に欠けている部分を、他者が補ってくれるはずです。
このことは、神との関係においても同様です。神は私たちをよいもので満たしてくださいます。ですから、常に完璧であろうとするよりも、自分には欠けがあるのだと理解することが重要です。自分が、自分が、と、常に自分自身を頼りにし、自分の中を自分自身で充満させていたら、神様が入り込むスペースが、なくなってしまいます。
神様は、そもそも私たちを良いものとして作られました。それは、完璧なもの、一人で完結できる者として、という意味ではないと思います。むしろ、自分がパーフェクトでないことを認め、助けを求めるもの、助け合うもの、言い換えれば、愛をもって仕え合う者として作られた、ということだと思います。
であるからこそ、私たちは、率直に自分に欠けのある者であることを認め、神に信頼して祈り、また、他者に助けを求めて生きる者でありたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


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