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大学礼拝「皇帝のものは皇帝に 神のものは神に」2022/7/20

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書22:15~22】
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

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 イエスのいたイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。住民は、ローマ帝国に税金を払わなければなりませんでした。多くの人が、この税金に反感を持っていました。そんな中で、ファリサイ派とヘロデ派、と呼ばれる2つのグループの人たちが、イエスに、このローマに対する税金を払うべきかどうかについて質問します。

ファリサイ派の人々は、ローマ帝国の支配に反対していました。ですので、もしイエスが、ローマに税金を支払うべき、と答えれば、ローマの支配を肯定することを意味します。ローマの支配からの解放を願っていた一般の多くの人々は、これを聴いたら、民衆の裏切り者だと思うはずです。逆にヘロデ派は、ローマの支配の現状を肯定する人たちでした。したがって、もしイエスが、ローマへの税金は拒絶すべきだ、と答えれば、支配者であるローマに対する反逆者とみなされてしまいます。

そんなことを問われたイエスは、デナリオン銀貨を出して答えます。デナリオン銀貨とは、当時、ローマが支配していた地域で広く流通していたローマの貨幣です。ローマ帝国の支配を強く印象づけるものでしたので、よい印象を持たれていませんでした。さらに、この銀貨には、ローマ皇帝が神のごとく刻印されていました。ですので、神以外のものを神としてはならないとする、ユダヤ教の教えに抵触するものでもありました。

そのようなデナリオン銀貨を見て、イエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」このイエスの答えは何を意味しているのでしょう。

ローマ皇帝が神のごとく刻まれていたローマの貨幣は、エルサレムの神殿での使用が許されていませんでした。そこで神殿の境内には、ローマの貨幣を、神殿で使用可能な貨幣に交換する両替商がありました。ところが、実は、この神殿で用いる貨幣、そしてそれは結局神殿の収入となるわけですが、それがまた問題でありました。
イエス時代、ローマの支配は、人々の生活を苦しめるものでしたが、苦しめたのはそれだけではありません。実は、神殿そのものも、人々の生活を苦しめるものでありました。住民は、神殿税を払わなければなりませんでした。年収の10分の一を神殿に献げ、さらにはお祭りの時や、人生の節目のときなどには、神殿に献げ物を出さなければなりませんでした。

ここから考えますと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は、人々が手にしている貨幣は、皇帝の貨幣でも、神殿の貨幣でも、結局取られてしまうものだ、とも読み取れます。イエスの言葉は、税金をとるローマ、献げ物を求める神殿を告発する面もあったかもしれません。

しかし、この言葉の意味はそれにとどまらないと思います。
イエスは、ローマの銀貨を見て、そこに刻まれているのは、誰の肖像かと尋ねました。そこには、皇帝の姿が神であるかのように刻まれていました。
さて、ユダヤ教におきまして、本来、神の姿が刻まれているのは、どこでしょう。旧約聖書の創世記によれば、神は、神の姿に似せて私たち人間を創造されました。つまり、本来、神の姿が刻まれているのは、実は私たち自身であるということです。私たちは、そもそも神の形に似せて作られているのであり、全ての人に、神の姿が確かに刻み込まれている、というのが聖書の人間理解です。

したがって、「神のものは神に返しなさい」とは、神の姿が刻まれている私たち自身は、皇帝ではなく、そしてまた神殿でもなく、神に返されなければならない、ということです。

私たち人間に、神の姿が刻まれているとは、どういうことでしょう。たとえば、私たちは、自分のためだけに、自分勝手に生きることもできるのに、苦しんでいる人を見れば放っておけません。何か悩みを抱えている人がいれば、なんとか力になれないだろうか、と考えます。そうしたことの中に、私たちに刻まれた神の姿、神の刻印を見ることができると思います。

コロナ禍の中、私たちは、人との接触をなるべく避け、必要な人と、必要な時間を限定して会うことが求められてきました。このことは、効率重視の社会にとっては、好ましいことかもしれません。たとえば、たまたま隣にいる人が実はこういったことで困っている、ということが分かり、そのことで自分の時間を犠牲にすることなったら、ある意味で非効率で、時間の無駄になってしまいます。しかしながら、イエスがされていたように、自分のため、ということを横において、たまたま隣にいる他者のために自分の時間を犠牲にする、というような行為にこそ、本来の人間の姿、つまり神の似姿を見ることができると思います。そして、そのような行為こそが、私たちの学校の建学の精神である「愛をもって仕える」ということでもあります。                                                                                                                              (チャプレン 相原太郎)


ブラックベリー

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