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大学礼拝「マタイを弟子にする」2022/9/28

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書9:9-13】
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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今日の箇所は、イエスがマタイを弟子として迎える場面です。

マタイは徴税人でした。当時、イエスが暮らしていたユダヤ地方は、ローマ帝国によって支配されていました。人々は、ローマに税金を納めなければなりませんでしたが、それを一手に引き受けていたのが、この徴税人たちでした。徴税人自身は同じユダヤ人でしたが、人々から帝国への税金を取り立てる仕事をしていました。彼ら徴税人たちは、ローマ帝国から、これだけの税金を集めなさいという指示を受け、そして、その定められた金額以上の税金を徴収し、その差額を自分たちの収入としていました。
当時、自分たちと異なる神を信じる外国に仕えることは、その人が汚れる、ということを意味しました。また、ローマの支配とその税金は人々を苦しめるものでもありました。そんなことで、徴税人たちは憎まれ、軽蔑され、罪人と見做されていました。マタイもそのような徴税人であったわけです。

今日の箇所に、イエスが、「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と書かれています。イエスの弟子たちは、このように、イエスのほうから声をかけて、従った人たちばかりでした。逆ではありません。すなわち、イエスの弟子になりたいと思った人が、イエスに近づいて「弟子にしてください」と願い出た、ということではない、ということです。むしろ、このマタイのように、自分では思ってもみなかった人がイエスに声をかけられて、弟子となっていきました。

そんなイエスが、マタイなど、徴税人や罪人とされた人たちと一緒に食事をしていました。すると宗教指導者たちは、「なぜそのような人たちと一緒に食事をするのか」と非難します。
当時のユダヤ社会においては、一緒に食事をする、というのは、宗教的に大切な意味を持っていました。また、親しさの表れでもありました。ですので、罪人と一緒に食事をする、などということは、避けるべきタブーでした。イエスが罪人たち親しく接し、一緒に食事をする、というのは当時としては大きなスキャンダルであったわけです。
それでもなお、イエスは、あえて、そのような罪人たちと一緒に食事をしました。それは、罪人と食事をすることで、その人たちを正しい道に導いてあげようとか、可哀想な人たちに手を差し伸べて、救い出してあげようとか、そういうことではありません。もし、イエスが、そういう動機であるとしたら、イエスが、当時の社会で罪人とされている人を、イエスとしても、その人たちは問題のある罪人だと認定していることになってしまいます。
イエスは、罪人を更生させようとしたのではなく、罪人とされた人たちに対して、一緒に食事をすることを通して、あなたはそのままでいいのだと、神はそのままのあなたを愛しておられるのだ、ということを示されたのでした。

イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語ります。

イエスが食卓に招いているのは、正しい人、すなわち、正しいと思い込んでいる、あるいは、自分は正しい者だと思い上がっている人ではなく、罪人とされ、神の前に正しい者ではないと理解している人でありました。
イエスは、罪を頭ごなしに否定したりしません。ダメな部分、弱い部分、病んでいる部分を治したりするよりも、むしろ、そうした部分を抱えて生きているその人自身を、そのまま愛し、受け入れようとされました。そのようにして人々を愛し、それは十字架の死に至るまで、変わることはありませんでした。

今日、この場に集まっている私たちにも、それぞれ、弱い部分、病んでいる部分、あるいは隠したい部分などがあると思います。そんな私たちにイエスは語りかけます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
何か、特別な地位にいる人たちだとか、教会で働いている人たちだとか、そういうことではなく、マタイを招いたように、ここにいる私たち一人ひとりを、招いておられる、ということです。
イエスは、周囲から軽蔑されたり、仲間はずれにされたりしている人、孤独の中にある人、そんな人たちのところに出向き、「わたしに従いなさい」と話しかけられました。そして、イエスは、今日ここにいる私たちにも語りかけ、神の愛の交わりへと、招いてくださっています。         (チャプレン 相原太郎)

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