大学礼拝「わたしは何ものでしょう。」2022/10/12
【出エジプト記3章11~15節】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
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只今朗読していただいた聖書は「モーセという人が神さまのために働く人として神さまから呼ばれる場面」の中心となるところです。まず、皆さんはモーセという名前を聞いたことがありますか? モーセという人はユダヤ教・キリスト教・イスラム教さらにはバハイ教などで、重要な預言者の一人とされている人です。実際にはそうではありませんが、伝統的には旧約聖書のモーセ五書の著者であるとされて、尊敬もされている人物です。
今日の聖書の箇所では、当時エジプトで奴隷とされていたヘブライ人を解放するように、エジプトの王、ファラオに言いに行けと神さまから言われたモーセが、そんな役割を担わされる「自分が何ものなのか」と神さまに質問をし、それへの答えが内容になっています。
「わたしは何ものなのか(11節)」というモーセの質問は、自分のような取るに足りない人間が、エジプトの王様ファラオに物申すとは、恐れ多いと恐縮しているニュアンスがあります。しかし本当の問いは、エジプトの王女さまの息子として育てられたが、本当はエジプト人ではなく、奴隷として働かされているヘブライ人が同朋である自分が、そもそも何ものであるのかでした。やはりヘブライ人なのか、育てられたとおりエジプト人なのか、それとも今暮らしを共にするミディアン人なのか。奴隷なのか、王子なのか、羊飼いなのか。モーセは悩みながら生きて来たのでした。
この悩みは在日外国人とくに在日コリアンの人たちの悩みと通じるでしょう。皆さんの中にも在日の方がいらっしゃるかもしれませんが、日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に、様々な理由で韓国・朝鮮から日本に来ざるを得なかったの人たちが、帰るに帰れなくなり日本で暮らしているのです。「わたしは何ものなのか」という問いは、そのような在日の人たちにとっても切実な問題です。日本に住み、税金を納めて暮らしているのにもかかわらず、選挙権はなく、日本語を母語として話すのに、日本人ではないと言われ、韓国に行けば行ったで「どうして韓国語が話せないのか?」と言われ、馬鹿にされることもあるのです。
わたしのアイデンティティは日本人ですが、わたしの父方の高祖父はロシア人です。わたしは、16分の一は、ロシア人の血が流れていますので、ロシアに対する親近感は強くあります。ですからロシア語を話せないことは残念だと思いますし、現在のウクライナに仕掛けたロシアの戦争は、本当に悲しい出来事で、早く終わって欲しいと願う気持ちは、ちょっと日本の皆さんとは違っているように感じます。
また、トランス女性ですので、生物学的には男性として生まれており、ずっと「わたしは何ものなのか」が切実な、自分の中での問いでありました。
モーセが神さまに、「わたしは何ものなのか」と問い掛けているのは、ただ恐縮をしているだけではありません。自分が「何ものか」悩まざるを得なかった、辛い経緯に心を寄せてくれるように、モーセは神さまに訴えているのです。
ヘブライ人であることを示そうとエジプト人の行いを咎めることで、誤ってエジプト人を殺してしまい、ヘブライ人からもエジプト人からも排除されているこの自分に、エジプトでの奴隷状態からヘブライ人を救い出す役割を押しつけられるのは耐えられないのだと言っているのです。「わたしは何ものなのか」という問いに、モーセ自身は「妻の民族であるミディアン人の羊飼いとして生涯暮らして行くつもりなのだと」と決断をしていたようです。
モーセの訴えに、神さまは「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と答えられます。モーセをファラオのもとへと派遣するための励ましの言葉です(12節)。
神さまは励まし「わたしはある、あなたと共に」に、モーセは慰められます。モーセの「わたしは何ものなのか」という質問に、神さまは答えてはいません。この時点で神さまにとっては、モーセが何者であるのか、ヘブライ人なのか、エジプト人なのか、ミディアン人なのかは関係がありません。なぜならモーセが、神さまから愛を伝える働きに遣わされる中で、神さまが誰といっしょにいて、どこで働かれるのかを思い知り、その中でモーセは、自分が誰と共に、何のために生きるのかをどうしても考えなければならなくなるからです。
「わたしはある、あなたと共に」という神さまの言葉には力がありました。モーセは神さまからの命令を受け入れるのですが、エジプト人の王子として育てられたモーセは神さまの名前を知りませんでした。
聖書の神さまの名前は「ヤハウェ」です。新共同訳聖書では「主」と訳されています。ヤハウェとは「成らしめる」という意味で、世界の創り主である神さまの性質や、救いの出来事を引き起こす神さまの性質をよく表しています。
しかし人間の生き方・あり方はまったく問われません。ですから「わたしはある/成る(エフイェ)」という神さまの名前が、「成らしめる」に対する批判的応答として記されています(14節)。ヤハウェと同じ動詞ですが、三人称ではなく一人称であり、使役ではなく通常の形です。
この神さまの名前は12節の「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と語呂合わせになっています。
わたしたちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」です。神さまからの呼びかけが、わたしたち人間の生き方を導いてくれます。「愛をもって仕えてくださる神さま」に招かれたわたしたちも「愛をもって仕える」わたしになりなさいと呼びかけてくださっているのです。わたしたちが「何になろうとしているのか?」その意思を強く持つことの勧めが、ここで語られているのです。
神さまは自由なお方です。成りたいものになられる方です。同じように、わたしたち人間もこうあるべきという枠組みや、お仕着せに抗って、自由になりたいものを目指すべきです。その歩みが神さまに委ねる、従う歩みです。モーセの「わたしは何ものなのか(11節)」という問いもその歩みの中で答えを与えられるのです。何者であるかは自分らしい歩みの中で、自ずと与えられるのだからです。
神さまがモーセに名前を教えたのは、神とはどのような方なのか、神さまを信じている人はどのように生きるべきかを教えるためでした。
わたしたちも、自由な神さまに押し出されて、わたしが何ものかを見つける歩みを、自分らしい自由な歩みを始めて参りましょう。 (チャプレン 後藤香織)