大学礼拝「疑いのトマス」2022/10/19
【ヨハネによる福音書20章24-29節】
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
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イエスが十字架で処刑された後、弟子たちは恐ろしくなって家に閉じこもっていました。それから3日後、復活したイエスが、弟子たちの前に現れます。その際に不在であった弟子の一人のトマスは、しばらく経って、弟子たちに合流します。イエスに出会った弟子たちは、その場にいなかったトマスに、「わたしたちは主を見た」と言います。しかし、トマスは疑います。「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
1週間後のことです。弟子たちは再び家に閉じこもっていました。今度はトマスも一緒でした。そこにイエスが現れ、トマスに「あなたの手を伸ばして、このわき腹に入れなさい」と言います。すると、トマスは、それまで誰も言わなかった一言をイエスに告白します。
「わたしの主、わたしの神よ。」
これまでも、様々な人たちが、イエスへの信仰、信頼を表してきました。たとえばマルタは「あなたこそ、神の子、メシアです」と言いました。しかし、このトマスによる「わたしの神よ」という信仰の告白は、全く次元の異なるものと言えます。疑うトマスにこそ大いなる気づきが与えられたわけです。
トマスは、復活のイエスに出会ったと語る弟子たちに対して、「わたしは決して信じない」と疑いの気持ちを素直に認めました。しかしそれでもなお弟子たちと一緒にいました。多くの場合、疑いを持っても黙っているのではと思います。あるいは、一緒に居づらくなって、そこから離れてしまうかもしれません。しかし、トマスは疑いの気持ちを弟子たちに率直に語りました。そして、疑ってもなお、弟子たちから離れることはありませんでした。
この箇所が示しているように、私たちは、疑いを持つことが許されています。疑いを持っていることを隠す必要もありません。神は、私たちが疑いを持つ程度のことで、怒ったり、離れたりするようなことはありません。むしろ、疑いは信仰において重要な気づきを与える大切な要素ともなるわけです。
私たちの大学・短大は、キリスト教主義であるからこそ、あらゆる常識や定説、噂や評判について、本当にそうなのだろうかと、自由に思い巡らし、語り合う場所でありたいと思います。そのようにして、真理を求めてまいりたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)