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終業礼拝「隣人を自分のように愛しなさい」2023/1/11

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書 22章34~40節】
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 隣人を愛しなさい、というのは、ごく当たり前の教えのように思うかもしれません。しかしながら、これは当時の宗教指導者たちに対するイエスの激しい怒りの現れでもありました。
この言葉は、イエスが首都エルサレムに入った時に語られたものです。それは、イエスが、エルサレムの神殿に行った時のことです。エルサレムの神殿は、当時の宗教的・政治的な中心でありました。そして、イエスは、そこにいた宗教指導者たちと大きな論争になりました。そこで飛び出したのが「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉でありました。

イエスと論争する指導者たちは、イエスにこう質問します。「あなたは、律法の中で、どの掟が最も重要だと考えるのですか。」
するとイエスは、まず、こう答えます。「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
この掟は、当時のユダヤ人が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉そのものでした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もが、そんなことは誰でも知っている、それは当然だ、と思った、ということです。

イエスは、続いてもう一つ言葉を重ねます。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

これが、先ほどの掟と同じように重要だ、とイエスは語ります。神を愛することと、隣人を愛することとは、切り離すことができないということです。このイエスの隣人愛の発言こそ、宗教指導者たちへの、大変厳しい批判でありました。
隣人を愛するというのは、それ自体、普通のことのようにも思えます。そしてそれは、当時もそうでありました。では、なぜそのことが、指導者たちへの批判となるのでありましょうか。一般的に言われている隣人愛と、イエスが言っている隣人愛とは何が違うのでしょうか。

ユダヤ教の社会において、隣人を愛するという時の、隣人とは、同胞、同じ民族を意味していました。仲間内ということです。隣人愛とは、同じ仲間、身内を助ける、同胞を大事にする、というようなことを意味していました。
一方、イエスの言う隣人愛は、それとは全く異なるものでした。そのことをわかりやすく語っているのが、イエスの譬え話の中でも最も有名なたとえの一つ、良きサマリア人です。

ある旅人が、一人、寂しい山道で強盗に襲われ、瀕死の状態になりました。そこを、ユダヤ教の偉い指導者たちが通りかかりますが、避けるように行ってしまいます。その後、ユダヤ人ではなく、一人のサマリア人が通りかかります。彼は、ユダヤ人の旅人がうずくまっているのを見つけると、すぐに近寄って、介抱し、街に連れて行って手当をします。

これがサマリア人の譬えです。
この物語のポイントの一つは、なぜ隣人を大事していたはずのユダヤ教の指導者たちが助けなかったのか、ということです。彼らは、悪人というわけではありません。むしろ、様々なユダヤ教の教えをしっかりと守り、人々から尊敬される人たちでありました。そんな彼らが、なぜ瀕死の重症の人を見過ごしにしてしまったのでありましょうか。
その一つの理解は、襲われた旅人が、半殺しにあっていて、場合によっては死んでしまっているかもしれない、ということです。
ユダヤ教には、当時、600以上の掟がありました。そして、その一つに、祭司たちは、血や死体に触れてはならない、触れると穢れる、というものがありました。
このことが理由で、彼ら指導者たちは、血だらけの旅人に近づかなかった、近づけなかった、ということが考えられます。その意味で、彼らは、律法に忠実であったわけです。
この旅人は、ユダヤ人であったかもしれません。本来は、彼らの言う隣人、仲間であったかもしれません。しかし、彼が血だらけですでに死んでいるかもしれない、という理由で、その旅人を、隣人として助けることができず、見過ごしてしまったわけです。

一方、サマリア人は、ユダヤ教の律法の外で生きていた人たちでした。ユダヤ教の社会において、サマリア人はユダヤ人の隣人ではありませんでした。むしろユダヤ社会から差別され、隣人という同胞愛のネットワークから排除されていた人たちでした。しかしながら、だからこそ、律法の枠に縛られず、困難の中にある旅人に近づくことができました。
イエスの言う隣人愛とは、このように、隣人愛の枠組みを予め決めて、その中にいる人を愛する、というのではなく、仲間内、既存の隣人を超えて、困っていれば近づき、寄り添う、ということに他なりません。

イエスは、その生涯をかけて、律法から外れた、罪人とされた人たち、言い換えれば、神さまから愛されていないと、みなされていた人たちを、ことのほか、大切にされました。
イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、ユダヤ社会において、隣人ではないとされていた人々です。例えば、貧しい人、重い病にある人、外国人など、のことです。
イエスは、あの彼ら彼女たちも、むしろ、彼ら彼女たちこそ、神によって造られた大切な存在なのであり、私たちは、その隣人となっていくべきなのだ、と告げているわけです。
であるからこそ、イエスは、宗教指導者たちが、この人は隣人、この人は隣人ではないと、隣人に枠をはめ、その愛から除外しようとすることに憤りを覚え、「隣人を自分のように愛しなさい」との言葉を発したのでありました。

神は、すべての人を愛されます。そこには、一人の例外もいません。神が、あの人は隣人ではない、だから放っておいても仕方ないなどと分け隔てすることはありません。
だからこそ、神ご自身が、一人の例外もなく、すべての人を大切にしておられるように、そして、あのサマリア人が、困難な状況にある人を隣人として自分のように愛したように、私たちも、仲間内の枠を超えて、すべての人を大切にできる者となれるように求めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城の紅葉

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