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大学礼拝「後で考え直して」2023/4/19

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書21章28~32節】
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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 イエスの話を聞いていた人たちは、神の言うことの聞く人は、当然のことながら、お兄さんのように、言われたことを実践する人だ、と考えました。
ところが、ここでイエスは、そのように答えた人たちに対して、あなたたちは、弟のように、口では「わかりました」と言っておきながら、結局は、神様の言うことを聞かないでは、と批判します。ここでイエスの話を聞いていた「あなたたち」とは、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の社会のエリートたちでした。そのような人たちに対して、あなたがたは、神に対して「はい、わかりました」と口では言っているが、結局は何もしないではないか、と言っているわけです。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループの一つで、ユダヤ教の教えにとても忠実で、真面目な人たちでした。彼らは、ユダヤ教の細かな規定を生活の隅々にまで生かしてしっかりと守り、また、それを人々にも教えていました。律法の規定を守ることこそが、ユダヤ教徒にとって、もっとも大事なことと考えていました。そして、その熱心さや実績ゆえに、自分たちこそ律法を守っている正しい者だと言うような自負がありました。
それゆえに問題だったのは、さまざまな理由でそうした規定を守ることのできない人たちに対する彼らの態度でありました。彼らは、規定を守ることができない人々を排除していました。また、そのように排除された人々の痛み、悲しみに共感することが、もはやできなくなってしまっていました。そして、自分たちこそが、他の人々に比べ、神さまに最も従っている、と思い込んでしまっていましたのでした。そして、彼らは「後で考え直す」ができませんでした。

ここで言われている「考え直す」とは何を意味するのか、と言うこと、視点を変える、あるいは、自分の生きる向きを変える、向き直す、ということです。では、どのような視点に変えるということでしょうか。
それは、言うまでもなく神の視点です。神の視点に向き直すとは、たとえば、自分を高めて、上から社会を見渡せるようなポジションにつくとか、そういうことではありません。むしろその反対に、この世界の中で、最も低い立場に追いやられている人たちの立場に自分の身を置き、そこからこの世界を見直す、ということです。そして、自分にはメリットがなくても隣の人を大切にし、愛をもって人々に仕えるような生き方へと変えられていく、ということです。

自分はそんなことはしたくない、あるいは、こんな私でいいのだろうか、と思われるかもしれません。
そこで大事なことは、そういう気持ちを隠し、押し殺して、あるいは、「私こそ、ふさわしい者だ」と勘違いして、神に対して「はい、わかりました」と優等生ぶって言う必要は全然ない、と言うことです。むしろ、正直に「いやです」「できません」という弱さを隠さない、ということです。どのみち神はすべてをご存じです。神は、私たちにそのような弱さがあるゆえにこそ、神の営まれるぶどう園で、ともに働くよう私たちを招いています。それゆえに私たちは、後からでも考え直し、視点を変え、神とともに愛をもって仕えるものとなってまいりたいと思います。その時、私たちは、働いているのが自分ではなく、神ご自身であることに気付かされるはずです。  (チャプレン相原太郎)


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