大学礼拝「こども・まんなかって?」2023/6/28
【マルコによる福音書10章13~16】
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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こどもまんなか、あるいは、こどもまんなか社会という言葉を最近よく耳にするようになりました。今年の4月には、こども基本法が施行され、こども家庭庁が発足しました。4月3日に開かれたこども家庭庁の発足式で、岸田首相は、「こどもたちにとって何が最も良いことなのかを常に考えていく。『こどもまんなか』社会の実現が使命です」と強調して語っています。もちろん、その背景には、少子化、出生率の減少、子育て支援等をめぐる数多くの問題があることは言うまでもありません。ただ、保育・こどもに関わる学校としては、こどもまんなか、という響きは、それ自体、けっして悪いものではありません。今年度に入ってからも、わたしは、大学案内にも、この言葉をさっそく用いましたし、一宮市では、5月下旬に、こどもまんなかオープンキャンパスというのを開催しました。
ところで、こども・まんなかというとき、皆さんはどのようなイメージをもっているでしょうか。岸田首相が、こども家庭庁の発足を語ったとき、こどもたちといっしょにこども家庭庁の六文字をそれぞれ一文字ずつもって、新聞記者の方に一列に並んで写した写真があります。岸田首相はこども家庭庁と書いたプラカードをもち、隣に女の子が筆で「こどもまんなか」と書いた半紙をもち、こ、ど、も、家、庭を、いろいろな年齢層のこどもたち(肢体不自由の子も含む)が持ち、庁をこども小倉政策担当相がもち、大人が両端に立って、こどもたちがまんなかにいるという並びでした。これが、こどもまんなかのひとつのイメージなのかもしれません。
ところで、聖書では、こども・まんなかのイメージは、どのように描かれているでしょうか。イエスの誕生場面でも、赤ちゃんイエスを中心にして、羊飼いたちや博士たちが集まってくる箇所は記されていますし、イエスの家族も、こどもであるイエスを中心に、三人は生活していたでしょうし、そのような家族の絵画、いわゆる聖家族はたくさん描かれていますが、こども・まんなかと言うとき、わたしは、やはり先ほど、聖書で読みました箇所(「マルコによる福音書」10章13節~16節)が第一に浮かんでまいります。
ただ、この箇所では、お話の最初からこどもがまんなかにいたわけではないのです。むしろ、こどもは端っこにいたのです。より正確に言うならば、こどもとそのこどもを連れてきた、おそらく母親は、まんなかにいるイエスの方に近づこうとしたのだけれども、よりによって、イエスの弟子たちによって近づくことが許されず、端っこに追いやられていたのです。そのような弟子たちの行動を見て叱責し、こどもをまんなかに連れてきたのが、他ならぬイエスだったのです。母親にしてみれば、わが子の将来の幸せを考えて、イエスの方に近づいたということであり、それがまんなかに向かうということだったのでしょう。
じつは、この話は、キリスト教保育の原点ともいえる箇所としてたびたび取り上げられることがあるのですが、キリスト教に基づく児童文学者として世界的に有名な(数多くの絵本も書いていますが…)、ドイツ人のレギーネ・シントラーさんが、その作品である『聖書物語』のなかで、この話を取り上げています。
その話によると、主人公の女の子ミリアムちゃんは、お父さんとお母さんと暮らしていましたが、あのイエスが近く自分たちの町にやってくるらしいことを聞きつけ、一目会って、お話を聞きたいと思うのでしたが、当時、そのような話を聞けるのは、大人の、しかも男だけというのが当たり前のことでした。いよいよイエスがやってくるその当日、お父さんは、イエスの話を聞こうと早々に家を出発してしまいますが、残されたお母さんもミリアムちゃんも、イエスに一目会ってみたかったので、ダメもとで、二人はイエスがやってくると言われているところへ行ってみるのですが、思った通り、人がいっぱいで近づくことはできず、おまけに、近づこうとすると、イエスの取り巻きみたいな人(弟子たち)からは、女性やこどもはダメだダメだ、と言われて追い払われる始末……ミリアム親子以外にも、他にも、追い払われたこどもと母親は何組も集まっていて、近づくことができないでいました。でも、そのようななかで、その様子に気づいて、そのこどもたちをこちらに連れてきなさい、と言ったのが、他ならぬイエスだったのです。
この『聖書物語』の絵を担当したのは、シュチェパン・ザウゼルさんというチェコ人の人で、このザウゼルさんの絵が、なかなか味があって、絵をみてみると、こどもたちが、イエスが座っている近くのところへと集まってきており、イエスは同じ目線でこどもたちと関わっています。そこには、こどもたちや、こどもを連れてきたお母さんたちもいるのがわかります。そして、最初は、イエスの取り巻きで、まんなかにいたはずの弟子たちは、遠くの方で、「なんでイエスさまは、こどもたちを自分の近くに連れてきたのだろう」とキョトンとした顔をしながら、立っている様子が、じつにユーモラスに描かれています。
これが、聖書の語る、こども・まんなかのイメージだと言ってもよいかもしれません。
こども、あるいは、その母親は、自分たちにとって、どのようにすることが幸せであるかをちゃんとわかっているし、自分たちがどうしたいかという自分たちの意志や思いをはっきり表明しており、それを受けとめているのがイエスであると言ってもよいかもしれません。
こども・まんなかというとき、こども一人一人が、自分たちは何をしたいのか、どうなりたいのか、何を望んでいるか、ということに、また、こどもの声にどれだけ耳を傾けているのか、ということに、重点が置かれていることに注目していただきたいと思います。
そして、保育職を目指している皆さんであれば、自分ならば、この絵の中のどこに自分はいるのか、ということも、併せて、考えてもらいたいと思います。それは、これからの、日本社会の中でも、こども・まんなか(の社会)を実現していくために、自分は何ができるか、を考えることでもあります。皆さんはこの絵のどこにいるでしょうか。(まさか弟子たちの場所ではないでしょうね。お母さんの横ですか、こどもの横ですか、それとも、イエスの横ですか、それともイエスのところ…是非考えてみてください)
今日の聖書の箇所は、こども・まんなか、ということについて考える上で、そのようなヒントを与えてくれるように思います。
そして最後にもう一つ。じつは、イエスは、弟子たちが、お互いの間で誰が一番偉いか、という他愛もない議論をしているようなときに、議論している弟子たちの間に、こどもをまんなかに連れてきて、こどもの姿を見倣うことを促すことがありました。
誰が一番偉いか、というランクづけをしたがる大人に対して、そのような競争よりも、お互いに相手を思いあって一緒にいることを大切にしているこどもをまんなかに連れてくることがありました。
こども・まんなかというときには、相手を思いやる気持ち、相手といっしょに生きていこうとする思いを、自分のなかの中心部分に置く、という意味もあることを最後にお伝えしておきたいと思います。
(学長 菊地伸二)