大学礼拝「最も小さい者の一人にしたのは」2023/7/5
【マタイによる福音書25章31~40節】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
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今日のストーリーを注意深く読むと、神がどこにいるのか、ということについて、大変に興味深いことが書かれています。
神様というと、おそらく一般的には、困っている人を助ける存在、傷ついた人を癒す存在と見られていると思います。ところが、今日の物語では、神様はまったく反対の立場にいます。すなわち、飢えていたときに食べさせた者が神様ではありません。神様は飢えていた人、そのものでありました。のどが乾いていたときに飲ませた者ではありません。神様は、喉が乾いていた人そのものでした。病気のときに見舞った人ではなく、病気の人そのもの、刑務所に入っている人を訪問する人ではなく、刑務所に入っている人そのものでした。それこそが神の姿なのだと、ここでは指摘しているわけです。
多くの人のキリスト教のイメージにおいては、なにか困っている人に対して良いことをした人に、神様の姿、あるいはキリストの姿を重ね合わせると思います。しかし、今日の物語が示しているのは、神様は困難の中にある人と共におられるということです。したがって、私たちは、困難の中にある人に寄り添うとき、そこで、キリストに出会うわけです。その出会いによって、自分のそれまでの生き方は変えられていくこということです。
子どもたちとの関係で言えば、誰かが子どもに優しく接している姿に神様の姿を見るよりも、子どもたちそのものに神様の息遣いを感じるべきであるということです。とりわけこの社会の中で、さまざまな困難な状況の中で生きる子どもたち、助けを求めている子どもたちの叫びを聞くとき、そこに神様の叫びを感じるべき、ということです。
ここに集う皆さんは、子どもたちの声を聞いたら、なんとかできないだろかと思うのではないかと思います。できるかできないかは別として、無視することはできない、耳を塞ぐことなどはできないと思います。私たちがそのように感じるとき、あるいは、そのようにして子どもたちの声に応えるとき、私たちの中には、確かに神様の愛が宿っているはずです。こうして、私たちは私たちの本来の姿、すなわち神様に似せて作られたものとしての姿を取り戻していくわけです。 (チャプレン相原太郎)